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満州キリスト教開拓村 実態は 作家・石浜みかるが証言集 国策に協力 見せつける役割も

 治安維持法によって獄中で被爆した父親をはじめ、戦時下のキリスト者の抵抗と挫折を作家としてライフワークにしてきた石浜みかる(83)=神奈川県藤沢市=が「証言・満州キリスト教開拓村」を書き下ろした。取材は約30年に及び「キリスト者も戦争する社会に組み込まれるのはあっという間だった」と振り返っている。(客員編集委員・佐田尾信作)

 石浜の父親で神戸市の歯科医師、石浜義則は教会を持たない信者のグループ「ブレズレン」の伝道者。国家神道の時代に「神宮不敬罪」を定めていた旧刑法と治安維持法によって1933(昭和8)年以降、2度拘束され、服役中の広島刑務所で被爆している。石浜は神戸から山口県周防大島に疎開した戦時下の一家の苦境を自伝的小説「あの戦争のなかにぼくもいた」(92年)で描き、「神宮不敬事件」の裁判記録を発掘して共著「十五年戦争期の天皇制とキリスト教」(2007年)に執筆するなどしてきた。

 こうした取材・執筆を通じて知ったのが、旧満州(現中国東北部)のキリスト教開拓団の存在。現在の黒竜江省ハルビン市郊外に41年に入植した長嶺子開拓団、さらに辺境の同省佳木斯(ジャムス)市に敗戦の年の45年に入植した太平鎮南緑ケ丘開拓団である。石浜は二つの開拓団に属した牧師や信者、当時を知る中国側の農民から聞き取りを続け、団員の渡航から引き揚げに至る秘史にたどり着く。団員の半数は死亡か消息不明だった。

 「満州開拓」は当時の日本基督教連盟挙げての事業である。元長嶺子団員中川芳郎(静岡県島田市)は「第二乙(第二乙種合格)でも徴兵されそうな時代でしたので、島田教会の牧師から勧められ、あこがれていた賀川(豊彦)先生が音頭をとって開拓村を作るのなら僕もと、率先して武蔵野の訓練所に入りました」と石浜に語っている。先進的なベーコンや乳製品の加工技術を学び、喜び勇んで大陸に渡ったが、その先は暗転した。中川は敗戦前後の体験はあえて語らなかったという。

 社会運動家の賀川は協同組合という理想のコミュニティーを「無住地帯」(賀川)の旧満州で実現したいと考えていた。第2次大戦が始まると、日本人キリスト者も「満蒙(まんもう)開拓」の国策に協力していることを欧米諸国に見せつける、ショールームの役割さえあったのだ。

 南北アメリカへの移民は肯定できても、満州移民の歴史は直視したくない―。「これが戦後の日本人の心の中に隠されてきた〈疚(やま)しさ〉の正体です」と石浜はつづり、本書を満州開拓の全体像から説き起こしている。この〈疚しさ〉の殻を破ることでアジアや世界の一員として生きるべき日本人の自画像が見えるだろう、とも述べている。

 「証言・満州キリスト教開拓村」は日本キリスト教団出版局刊、A5判240ページ、3300円。(敬称略)

(2024年7月18日朝刊掲載)

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