原爆に誇りと葛藤 交じる町 映画「リッチランド」 来月3日に広島公開 ルスティック監督「自国の歴史 見直すきっかけに」
24年7月20日
米ワシントン州南部にある人口約6万人のリッチランド。長崎に投下された原子爆弾に使われたプルトニウムを精製した「ハンフォード・サイト」の労働者と家族のためにできたベッドタウンだ。その歴史と現在を追うドキュメンタリー映画「リッチランド」が8月3日から広島市西区の横川シネマで上映される。来日したアイリーン・ルスティック監督に聞いた。(渡辺敬子)
1943年から87年までプルトニウムの生産が行われたハンフォード・サイトは、シアトルから南東へ約250キロの乾燥地帯にある。原子炉閉鎖後の今も、核廃棄物処理や除染作業が続く。
映画はさまざまな立場の声を丁寧にすくい取り、リッチランドの歴史を正当化も批判もしない。高校のフットボールチームのシンボルマークは「きのこ雲」。原爆を誇りとする人もいれば、葛藤を抱える人もいて、「川の魚は食べない」と明かす。愛国心、家族愛…。カメラはそれぞれのアイデンティティーを静かに揺さぶる。
ルスティック監督は2015年に初めてリッチランドを訪れた。住民と信頼関係を築きながら撮影に4年半をかけ、120時間もの映像を自ら編集した。
ある女性は2時間かけて建築物の説明をした後、ふと、がんで亡くなった父親の思い出を打ち明けた。監督は「背景や説明の情報ではなく、相手と出会った瞬間の感動を抽出していった」と振り返る。
21年8月、リッチランドで初めて開かれた原爆犠牲者の追悼式典も映す。広島市出身で祖父が被爆した米国在住の美術家、川野ゆきよさんも招かれた。川野さんは、祖母の衣類の生地を自らの頭髪で縫い合わせ、長崎に落とされた「ファットマン」を実物大に造形したインスタレーションを制作。核施設の緩衝地帯だった大地に展示した。
「どうしても日本人の声を盛り込みたかった。歴史のトラウマ(心的外傷)や記憶と向き合う彼女の姿勢に共鳴した」とルスティック監督。亡霊のように風に揺れる作品は長崎だけでなく、世界のヒバクシャの悲しみを想起させる。
原爆開発者の伝記映画「オッペンハイマー」(クリストファー・ノーラン監督)について、「1人の男性が葛藤を経て成長するハリウッド映画の典型」と評する。先住民や実験場の風下に暮らす住民の存在を挙げつつ「核兵器産業は複雑に絡み合い、長い時間をかけて多くの人々に影響を残す。あの映画から、はみ出すものに私は興味を持っている」と語る。
シアトルの住民からは「リッチランドがこうした状況にあるとは知らなかった」と感謝する声が寄せられたという。「どんな国にも加害と被害の両面がある。さまざまな国の観客が、自国の暴力の歴史を見つめ直すきっかけになればうれしい」と力を込めた。
(2024年7月20日朝刊掲載)
1943年から87年までプルトニウムの生産が行われたハンフォード・サイトは、シアトルから南東へ約250キロの乾燥地帯にある。原子炉閉鎖後の今も、核廃棄物処理や除染作業が続く。
映画はさまざまな立場の声を丁寧にすくい取り、リッチランドの歴史を正当化も批判もしない。高校のフットボールチームのシンボルマークは「きのこ雲」。原爆を誇りとする人もいれば、葛藤を抱える人もいて、「川の魚は食べない」と明かす。愛国心、家族愛…。カメラはそれぞれのアイデンティティーを静かに揺さぶる。
ルスティック監督は2015年に初めてリッチランドを訪れた。住民と信頼関係を築きながら撮影に4年半をかけ、120時間もの映像を自ら編集した。
ある女性は2時間かけて建築物の説明をした後、ふと、がんで亡くなった父親の思い出を打ち明けた。監督は「背景や説明の情報ではなく、相手と出会った瞬間の感動を抽出していった」と振り返る。
21年8月、リッチランドで初めて開かれた原爆犠牲者の追悼式典も映す。広島市出身で祖父が被爆した米国在住の美術家、川野ゆきよさんも招かれた。川野さんは、祖母の衣類の生地を自らの頭髪で縫い合わせ、長崎に落とされた「ファットマン」を実物大に造形したインスタレーションを制作。核施設の緩衝地帯だった大地に展示した。
「どうしても日本人の声を盛り込みたかった。歴史のトラウマ(心的外傷)や記憶と向き合う彼女の姿勢に共鳴した」とルスティック監督。亡霊のように風に揺れる作品は長崎だけでなく、世界のヒバクシャの悲しみを想起させる。
原爆開発者の伝記映画「オッペンハイマー」(クリストファー・ノーラン監督)について、「1人の男性が葛藤を経て成長するハリウッド映画の典型」と評する。先住民や実験場の風下に暮らす住民の存在を挙げつつ「核兵器産業は複雑に絡み合い、長い時間をかけて多くの人々に影響を残す。あの映画から、はみ出すものに私は興味を持っている」と語る。
シアトルの住民からは「リッチランドがこうした状況にあるとは知らなかった」と感謝する声が寄せられたという。「どんな国にも加害と被害の両面がある。さまざまな国の観客が、自国の暴力の歴史を見つめ直すきっかけになればうれしい」と力を込めた。
(2024年7月20日朝刊掲載)