刻む記憶 被爆建物 <3> 原爆ドーム
24年7月23日
家族失った悲しみの象徴
「みんな死んで1人になってしもうた」
両親と姉妹が収まるセピア色の写真を見詰めながら、橋本凉子さん(96)は、兵庫県西宮市の高齢者施設の自室で泣き崩れた。広島県産業奨励館(現原爆ドーム)内に勤めていた姉をはじめ、広島市中心部で暮らしていた家族6人を原爆に奪われた。「ドームは悲しみ、腹立ちの場。あんなことがなかったらみんな元気でおった」
実親が叔父叔母
物心がつく前に子どものいない伯母夫妻の養子になり、関西で育った。実の両親と姉妹4人は「叔父叔母、いとこ」と教えられ、夏休みには互いの住む兵庫や東京で一緒に遊んだ。「上のお姉ちゃんは優しくて一生懸命もてなしてくれ、下のお姉ちゃんはしっかりしてて…。お父さんは私と同じ大きな鼻」。別れ際には土産をたくさん持たされ、妹が嫉妬した。
1945年5月、転勤で父坂井亀(ひさし)さん=被爆当時(50)=たち一家は東京から広島へ転居。自宅を下中町(現中区)に構えた。「東京と違って、静かで良い所です」。母あいさん=同(46)=からの便りは、それが最後になった。
3カ月後、疎開先の愛媛県で「叔父叔母、いとこ」の死を知った。姉幸子さん=同(21)=は職場のあった県産業奨励館で、妹澄子さん=同(10)=は袋町国民学校(現袋町小)で犠牲になったとみられる。
母ともう一人の姉泰子さん=同(20)=は自宅で被爆。父は家屋の下敷きになった2人を助けようとしたが「生き延びて、他の娘を頼む」と母に言われ、無念の思いで離れたという。「優しい母だった。きっと幼くして手放した私のことも思い出してくれただろう」。母と姉妹3人は遺骨さえ見つからなかった。大やけどを負った父も、被爆2週間後に亡くなった。
自身が養子だと知ったのは高等女学校を卒業した頃だった。なぜ自分が養子に、という疑問が渦巻いた。「養父母は真実を伝えるのに悩んだと思う。でも、みんなが元気な時に本当のことを知りたかった」。学徒動員に出ていたもう一人の妹玲子さんが唯一生き延びていたが、「被爆によるものと思う」(橋本さん)という白血病で、被爆15年後に30歳で早世した。
慰霊で広島訪問
戦後、橋本さんは両親と姉妹の慰霊のために広島へ何度も足を運んだ。50代で夫に先立たれ、喪失感を埋めようと始めた川柳で「原爆忌亡母のぬくもり今もなお」と詠んだ。「亡くなったみんなの分まで長生きさせてもらっている。けど、やっぱりお母さんに抱きついて一緒に写真を撮りたいね」
脚が弱くなった今も、広島に行って被爆死した家族のそばにいたいと強く思う。「老朽のドームに思う矢の月日」。姉幸子さんが眠るかもしれない原爆ドームは、被爆79年を経ても家族の「惨禍」を伝える象徴として立ち続けている。(山下美波)
原爆ドーム
1915年に広島県物産陳列館として完成し、33年に県産業奨励館に改称。県産品の販売・展示に加え、博物館・美術館の役割も担った。44年3月に館業務は廃止され、内務省中国四国土木出張所や県地方木材会社などの事務所として使われた。原爆投下で建物内の人は即死し、今も正確な人数は不明。解体を求める声もあったが、66年に永久保存が決まり、96年には国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された。
(2024年7月23日朝刊掲載)