刻む記憶 被爆建物 <4> 本川小
24年7月24日
つらい思い出 復学も断念
爆心地から最も近い学校となった広島市の本川国民学校(現本川小)。原爆投下時に3年生だった白年順(ペク・ニョンスン)さん(88)=中区=は学校生活に「楽しかった思い出はない」という。戦後、働くために復学を諦め、今も文字を書くのは苦手だ。
朝鮮半島から広島市に渡った両親の元に生まれた。被爆前は空鞘町(現中区)で家族と7人暮らし。「中島本町の病院や映画館によく行った。空鞘神社の境内で昼寝していたよ」と懐かしむ。
ただ、本川国民学校では「朝鮮人のくせに」と言葉のいじめに遭った。「当時の自分にとって朝鮮は他の国という認識。なぜいじめられるのか分からなかった」。母親がたびたび学校へ抗議に行ったのを覚えている。
3年生以上が対象の集団疎開には参加しなかった。そして、あの日、家族と原爆に遭った。「白川澄子」という日本名の被爆者健康手帳には「空鞘町 0・7キロ」と被爆場所が記されている。「光も音も感じなかった」。学校で被爆した児童で助かったのは6年生の居森清子さん(2016年に82歳で死去)だけだった。
自ら働くことに
白さんは「よそ見するな」と言う母のもんぺを必死に握り、江波の親戚宅へ逃げた。伯父が「お前らよく生きとったのう」と泣きながら出迎えてくれた姿が忘れられない。家族は全員無事だったが、被爆後に父の体調が悪化。戦後の混乱で朝鮮半島に戻れず、妹や弟を通学させるため、自ら働くことになった。
未明に江波を出て、歩いて広島駅へ。早朝の列車に乗って三次へ行き、闇米を仕入れてくるのが仕事だった。1日2往復する日も。睡眠は数時間。文字の読みは駅の看板や雑誌で覚えた。「いもあめを作ったりサイダー工場で働いたり、何でもしたよ」と振り返る。
16歳の時、朝鮮半島出身の夫と見合いで結婚。市の失業対策事業の土木作業などで汗を流した。30代で子宮がん、40代で乳がんを患いながら、4人の子を育てた。長男の韓政美(ハンジョンミ)さん(66)=中区=は「両親は教育を満足に受けられなかった分、貧しい中でも学ばせようと思ったのだろう」と感謝する。
詳細記憶語らず
15年ほど前に清掃の仕事を辞め、今は住み慣れた家で1人穏やかに暮らす。孫10人、ひ孫7人に恵まれ、その成長が一番の楽しみだ。近くに住む韓さんは被爆者や2世を支えようと、15年に広島県朝鮮人被爆者2世の会の会長に就いた。
今月9日、求めに応じて白さんは被爆後初めて本川小を訪ねた。1時間ほどかけて旧校舎を改修した資料館などを見て回ったが、当時の詳細な記憶を語ることはなかった。つえを突き、ゆっくりと校舎を後にする姿に、付き添った韓さんは「良い思い出がなかったから、学校の記憶は消したのかも」と思いやった。(山下美波)
本川小
1873年に「造成舎」の名で開校した。1928年に広島市内の公立小で初の鉄筋校舎が完成。地上3階一部地下1階建てで連続するアーチ型の窓が特徴的だった。設計者は大正屋呉服店(現レストハウス)や旧広島市役所も手がけた増田清。爆心地から410メートルで、児童約400人、教職員約10人が犠牲になった。被爆翌日から臨時救護所となり、46年2月に授業を再開した。被爆校舎の一部を保存した平和資料館は88年に開館。原爆資料館(中区)の付属展示施設として2026年11月にリニューアルオープンする。
(2024年7月24日朝刊掲載)