緑地帯 西谷真理子 私と中国地方出身のデザイナー②
24年7月24日
広島といって、まず思い浮かぶファッションデザイナーは、三宅一生さん(1938~2022年)だ。雑誌「装苑」で初めて取材したのが三宅さんだった。1977年のことだ。高梨豊さん撮影のポートレートが1ページを飾った。89年には、ゲスト編集長として、「装苑」巻頭の三十数ページの編集に参加した。ページ構成からモデルの選択、スタジオでの撮影、写真セレクト、レイアウト、原稿までチェックするという仕事だ。
プリーツという技法に取り組んだタイミングで、それまでダイナミックでアートのような服を発表してきた三宅さんの「今作りたいのは、ジーンズのように、誰もが街で着る服です」という言葉が印象的だった。発言は、93年に「プリーツプリーズ」という形で実現し、軽くてしわにならず、旅行にピッタリ、そして買いやすい価格だったこともあり大ヒットした。
ところで、広島の人なら誰でも三宅さんがパリやニューヨークでショーを開催したり、国内外の美術館で展覧会を行ったり、欧州の有名なダンスカンパニーの衣装をデザインしたりして、世界中で評価されていることを知っているのだろうか?
38年広島生まれの三宅さんは、市の中心部に住んでいたこともあり被爆した。しかし、長い間、自身や家族の被爆について話さなかった。取材した時も、姉が購入していた欧米のファッション雑誌を見て育ち、子ども時代からファッションやデザインに憧れたことだけを話してくれた。(編集者=東京都)
(2024年7月24日朝刊掲載)
プリーツという技法に取り組んだタイミングで、それまでダイナミックでアートのような服を発表してきた三宅さんの「今作りたいのは、ジーンズのように、誰もが街で着る服です」という言葉が印象的だった。発言は、93年に「プリーツプリーズ」という形で実現し、軽くてしわにならず、旅行にピッタリ、そして買いやすい価格だったこともあり大ヒットした。
ところで、広島の人なら誰でも三宅さんがパリやニューヨークでショーを開催したり、国内外の美術館で展覧会を行ったり、欧州の有名なダンスカンパニーの衣装をデザインしたりして、世界中で評価されていることを知っているのだろうか?
38年広島生まれの三宅さんは、市の中心部に住んでいたこともあり被爆した。しかし、長い間、自身や家族の被爆について話さなかった。取材した時も、姉が購入していた欧米のファッション雑誌を見て育ち、子ども時代からファッションやデザインに憧れたことだけを話してくれた。(編集者=東京都)
(2024年7月24日朝刊掲載)