刻む記憶 被爆建物 <5> 広島逓信病院
24年7月25日
救護尽力の祖父 感じる場
爆心地から約1・4キロの広島逓信病院(現広島市中区)には、原爆投下の当日から助けを求める負傷者が押し寄せた。当時の院長、蜂谷道彦さん(1980年に76歳で死去)は、原爆の残忍さをつづった56日間の体験記「ヒロシマ日記」を著し、「昭和二十年八月六日」に被爆直後に病院で起きた火災の消火や救護に力を尽くした1人の薬剤師の名を記している。
1階の焼失防ぐ
「檜井(ひのい)君がはやぶさのように飛んできて手あらく私を引きあげた」。猛火に襲われた病院を前に、負傷して身動きが取れなくなった蜂谷さんを助けたのは、薬局長として勤務していた当時38歳の檜井暁夫さん。初期消火にも当たり、診療室などがあった1階の焼失を防いだ。
「優しい愛妻家で賢い人だったそう」と孫の孝夫さん(60)=南区=は誇らしげに語る。檜井さんは明治薬学専門学校(現明治薬科大)を卒業後、40年から広島逓信病院で薬剤師として働いていた。祇園町(現安佐南区)に家族4人で暮らし、広島逓信病院の地下で被爆した。
医師だった長男秀夫さん(2018年に82歳で死去)は手記で振り返る。「蜂谷院長夫妻を含め多くの重傷者の介護に全力を尽し、死んだと思っていた父が夕方になり満身創痍(そうい)となり倒れ込むように帰宅して来ました。その時の家族親戚一同の感謝(神、仏に対する)感激は筆舌ではつくせません」
戦後、檜井さんは救護活動についてほとんど家族に語らなかった。ただ「広島原爆医療史」に収められた52年に逓信病院職員たちが被爆時を回想した座談会の記録に発言が残る。「毎日患者が殺到するので県より補給を受けても、すぐ足らなくなり、薬用材料の確保にはずいぶん苦心をいたしました」。ヒロシマ日記の8月11日の記述にも、救護資材を探しに市内を巡る様子がある。
50年に逓信病院を退職し、横川駅前(現西区)で薬局を開業した。「けがや病気で困った人がいつでも治療を受けられるように」が口癖で、ほぼ年中無休で働いた。ヒロシマ日記の初版は薬局を訪ねてきた蜂谷さんから受け取ったという。被爆22年後に、白血病のため59歳で亡くなった。
「日記」と両方で
地域医療に貢献する祖父と父の姿を見てきた孝夫さんも医療の道に進んだ。現在、広島大病院(南区)で遺伝子診療科の教授を務め、治療や診断に遺伝情報を活用する「ゲノム医療」に取り組んでいる。「原爆投下直後に蜂谷先生をサポートしていた祖父の姿は、究極のチーム医療だと感じた。同じ医療人として尊敬する」
今月10日、孝夫さんは今も建物の一部が残る旧広島逓信病院外来棟の被爆資料室に足を運んだ。「建物とヒロシマ日記が両方残ることで、ここで起きたことを後世に強く伝えられる。充実した展示となり、国内外の人がより多く来てほしい」。被爆当時のまま残るタイルに触れ、祖父の存在を感じた。(山下美波)
旧広島逓信病院外来棟
1935年に広島逓信診療所として完成。日本武道館(東京)などを手がけた建築家山田守氏が設計し、大きな窓が特徴的で3階は日光浴室になっていた。空襲への措置で45年7月7日までに入院患者が退院。原爆投下時は職員のみが出勤し、1人が亡くなった。95年に中国郵政局が旧外来棟の一部を被爆資料室として開設。2018年に広島市が日本郵政から寄付を受けた。25年11月に原爆資料館(中区)の付属展示施設としてリニューアルオープンする。
(2024年7月25日朝刊掲載)