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米軍機の「破片」住民保存 太平洋戦争末期に墜落 乗員が被爆死 柳井 地元記念館に寄贈

 太平洋戦争末期に柳井市伊陸(いかち)へ墜落し、乗組員の多くが広島へ移送された後に被爆死した米軍のB24爆撃機の機体の一部とみられる金属片を、伊陸の住民が保存していた。有効活用を願い、地元の平和記念館に寄贈した。(山本祐司)

 金属片は縦63センチ、横106センチ、厚さ1ミリ以下の鋼板。表側はびょうを使ったリベット打ちが残り、裏側は上下に組まれた高さ6センチの補強材が接着している。一部に文字があるが判読できない。ジュラルミン製とみられ、被弾したと思われる痕に丸い金属板を当てて修復した箇所がある。

 地元の河村千之さん(79)が自宅で保管していた。1980年に養子となって結婚し、現在の家に移り住んだ時、妻の祖父が米軍機の墜落現場から拾ってきたと妻の母から聞いた。米軍機の墜落後、住民は破片を持ち帰り、ちりとりなどに加工して使ったが、金属加工の技術を持った家族がいなかったため、そのまま残ったという。

 河村さんが昨年、米兵の遺族を追ったドキュメンタリー映画を地元で見たのが寄贈のきっかけ。上映会を主催し、米軍機の墜落と被爆米兵の史実を伝える地域の平和記念館で展示してもらおうと考えた。記念館を運営する武永昌徳さん(73)に相談し、受け入れが決まった。

 日本の空襲被害を研究する元徳山高専教授で、空襲・戦災を記録する会事務局長の工藤洋三さん(74)=周南市=によると、伊陸に墜落した米軍機の残骸は米軍の指示で近くの公会堂の前に戦後集められ、大阪へ運ばれた。そのため地元には大きな破片が残らなかったという。金属片の写真を見た工藤さんは「墜落現場から持ち帰ったことが事実であれば、金属片は米軍機の破片だろう。極めて大きく、珍しい」としている。

 河村さんは「当時の日本と米国が敵対した戦争の遺物。感慨深く、みんなに見てもらいたい」と願う。武永さんは「実際に米軍機が落ちた証しでとても貴重な資料。墜落後、米兵が被爆死した話も実感してもらえる。大切にしたい」と話す。

 武永さんは、米軍機が79年前に墜落した日に当たる28日、柳井市柳井のみどりが丘図書館で午後2時からある平和行事で金属片を公開する予定。

柳井市伊陸に墜落した米軍機
 1945年7月28日、沖縄県の読谷飛行場を出発した米軍のB24爆撃機ロンサムレディー号は、呉市沖に停泊中の戦艦榛名を攻撃後、対空砲火を浴びて山口県伊陸村(当時)に墜落した。乗組員9人のうち、捕虜として広島市の中国憲兵隊司令部に収容された6人は、米軍が8月6日に投下した原爆の犠牲になった。住民は98年、墜落現場近くの公会堂横に「平和の碑」を建て、追悼している。

(2024年7月25日朝刊掲載)

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