刻む記憶 被爆建物 <6> 旧日本銀行広島支店
24年7月26日
物言わぬ証人 残し続けて
復元工事を終え、9月で1年になる旧日本銀行広島支店(広島市中区)。「ここにも傷があるね。でもきれいになり過ぎだ」。難波康博さん(85)=安佐北区=は被爆の痕跡を一つ一つ説明できる。この場所で警備員として働きながら、1人で関係者の被爆証言を集め、20年前に冊子も編んだ。「物言わぬ証人」の代弁者だ。
戦時中、出身地の岡山市で空襲を経験。かわいがってくれた叔父を特攻で失った。「潜在的に戦争のことをずっと考えていた」。戦後に地元の銀行へ入行し、研修で旧日銀広島支店の存在を知った。被爆状況を聞き、原爆投下から2日後に業務を再開したことに衝撃を受けた。一度湧いた関心はくすぶり続けていた。
警備服姿で案内
営業や貸し付け担当を経て40代後半で早期退職し、知人のいた会社に誘われて広島市へ移住。さらに60歳を過ぎて警備会社に転職した。2000年に日銀が広島市に旧広島支店を無償貸与し、一般公開されることになったからだ。「警備員なら常に中に入れる」と反対する家族を説得。希望がかない支店の担当になった。
「よし調べようと思ったけど、被爆の痕跡が分からなくて」。肩を落としていると、建物を訪れた被爆者の元職員たちが丁寧に説明してくれた。爆風で吹き飛んだ机による床のへこみ、窓ガラスが刺さった壁の傷痕…。警備服姿で、いつしか来館者を案内するようになった。「会社には要らんことをするなと𠮟られました」と笑う。
休日には、紹介してもらった広島県内外の元職員や遺族を訪ね歩き、当時の職員95人分の被爆状況を整理した。新たな証言や転載許可を得た手記を基に、支店3階にあった広島財務局31人分の体験記を集めた「街が消えた日」を04年に、支店28人分の「消えた伝統の音」を翌年に自費出版。遺族からの寄付金も充て、平和学習で訪れた学校に無料で配った。
広島財務局で被爆し、重傷を負った女性はこう記す。「余りにも堅固にその建物はできているため、外から見るとなんともないですよネ。こんな建物の中にいたから助かったんだなと、改めてながめましたヨ。何ともいえない気持ちです」
ただ、難波さんは掲載できなかった証言がいくつもあると明かす。ある女性は原爆投下翌日の光景を回顧。赤ちゃんを抱いた母親が支店屋上から飛び降りて自ら命を絶ったと思ったら、よく見ると、抱いていたのは赤ちゃんではなく枕だったという。「正気を失っていたのだろう。残酷過ぎて…」。当時の惨状を思うと、今も大粒の涙があふれる。
生き物のように
支店の警備を退いて久しいが、今も折に触れて年数回は訪れる。「私にはこの建物が、楽しかったことも、つらかったことも経験している生き物のように感じる。よく原爆を耐えたなと」。あの日の傷痕を指し、訴えた。「嫌だね、戦争っていうのは。ここであったことを歴史に刻むために、建物を残し続けてほしい」(山下美波) =おわり
旧日本銀行広島支店
1936年完成で鉄筋3階地下1階建て延べ3214平方メートル。ギリシャ風の装飾彫刻などの古典様式が特徴。爆心地から380メートルにあり、広島市によると、原爆投下で建物内にいた日銀職員8人、3階の広島財務局で12人が亡くなった。3階は全焼したが、よろい戸を閉じていた1、2階は大破を回避し、地下にあった金庫も残った。2000年に市重要文化財。市は市民の文化、芸術活動の場として活用している。
(2024年7月26日朝刊掲載)