祖母の被爆体験 継ぐ一歩 広島市「家族伝承」 記者が研修 取材で会った「先輩」に背押され
24年7月29日
1945年8月6日、私(34)の祖母(89)は父親を広島原爆に奪われ、後に入市被爆した。家族の過酷な体験を伝える役目が被爆3世の自分にある―。そんな意志を胸に、記者として原爆・平和報道に携わってきた。さらに最近、家族という「当事者」として伝えることへの思いも募っている。今月、広島市の「家族伝承者」研修を受け始めた。(新山京子)
市は、被爆者が自らの体験を語る「被爆体験証言者」、子や孫が体験を語り継ぐ「家族伝承者」と、第三者が特定の被爆者の体験を語り継ぐ「被爆体験伝承者」の養成を行っている。今月5日、原爆資料館(中区)での研修初日に県内外から合わせて約60人が出席し、一緒に学んだ。本年度は家族伝承者の研修生は私を含めて23人である。
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研修は7月中に計5回。同館学芸員や大学院教授らを講師に、原爆投下に関する基礎知識や核を巡る世界情勢を学ぶ。早速、原爆資料館の図録と十数ページ分の資料が渡された。「聴講者からあらゆる質問を受ける。基礎知識が必要」と市の担当者。ゆくゆくは1時間の講話を1人で担わなくてはいけないのだ。
会場を見渡すと、スーツケースを携えた人も。東京都の会社員久保田哲司さん(59)が熱心にメモを取っていた。数年前、広島に単身赴任。休日に原爆資料館へ足を運ぶうち関心を持ち、被爆体験伝承者を志した。「東京でもヒロシマを知り、考える時間をつくりたい」。大阪や鳥取などからの研修生もそう口にした。思わず頭が下がる。
私自身は広島市内の小中高で平和学習を受け、原爆被害について見たり聞いたりするのが日常だった。ただ祖母の新山与志子は、被爆死した父親について語ろうとしなかった。「8月6日は嫌な夢を見る」とつぶやくことも。子ども心に、尋ねることははばかられた。
転機は3年前。「中国新聞ジュニアライター」の中高生記者たちに証言してもらいたい、と思い切って頼んだ。
すると、つらい気持ちをこらえ、語ってくれた。10歳で疎開先の可部(現安佐北区)にいたあの日、父親の貢=当時(47)=が富士見町(現中区)の自宅から上流川町(同)にあった勤務先の日本勧業銀行広島支店へ出たまま帰らなかったこと。2日後から死体が横たわる焼け野原を姉と捜し歩いたものの、消息は分からなかったこと―。
記事を書くため、祖母がしたためた手記を読んだり、被爆前の家族写真を見たりするうちに、「被爆3世」の役割を考えるようになった。程なく市が「家族伝承者」の養成制度を新設。取材で出会った被爆体験伝承者たちに背を押された。信念を持って活動する姿に接し、私も祖母が生きているうちにできる限りのことをすると決めた。
■■■
川﨑梨乃さん(32)=東広島市=は既に祖父(92)の体験の聞き取りを始めているという。私と同じワーキングマザー。不安もあるが「自分の他に伝えていく人はいない」と言われ、共感を覚えた。
10月に語り方のこつを学ぶ。家族伝承の研修では肉親の被爆体験を約1万字にまとめ、さらに計3回の実習に入る。最短1年で「デビュー」する人もいるが、私は時間がかかりそう。仕事や育児と両立しながら、祖母ら被爆者から託された思いを新聞活字と講話で伝える担い手へ、歩を進めたい。
(2024年7月29日朝刊掲載)
市は、被爆者が自らの体験を語る「被爆体験証言者」、子や孫が体験を語り継ぐ「家族伝承者」と、第三者が特定の被爆者の体験を語り継ぐ「被爆体験伝承者」の養成を行っている。今月5日、原爆資料館(中区)での研修初日に県内外から合わせて約60人が出席し、一緒に学んだ。本年度は家族伝承者の研修生は私を含めて23人である。
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研修は7月中に計5回。同館学芸員や大学院教授らを講師に、原爆投下に関する基礎知識や核を巡る世界情勢を学ぶ。早速、原爆資料館の図録と十数ページ分の資料が渡された。「聴講者からあらゆる質問を受ける。基礎知識が必要」と市の担当者。ゆくゆくは1時間の講話を1人で担わなくてはいけないのだ。
会場を見渡すと、スーツケースを携えた人も。東京都の会社員久保田哲司さん(59)が熱心にメモを取っていた。数年前、広島に単身赴任。休日に原爆資料館へ足を運ぶうち関心を持ち、被爆体験伝承者を志した。「東京でもヒロシマを知り、考える時間をつくりたい」。大阪や鳥取などからの研修生もそう口にした。思わず頭が下がる。
私自身は広島市内の小中高で平和学習を受け、原爆被害について見たり聞いたりするのが日常だった。ただ祖母の新山与志子は、被爆死した父親について語ろうとしなかった。「8月6日は嫌な夢を見る」とつぶやくことも。子ども心に、尋ねることははばかられた。
転機は3年前。「中国新聞ジュニアライター」の中高生記者たちに証言してもらいたい、と思い切って頼んだ。
すると、つらい気持ちをこらえ、語ってくれた。10歳で疎開先の可部(現安佐北区)にいたあの日、父親の貢=当時(47)=が富士見町(現中区)の自宅から上流川町(同)にあった勤務先の日本勧業銀行広島支店へ出たまま帰らなかったこと。2日後から死体が横たわる焼け野原を姉と捜し歩いたものの、消息は分からなかったこと―。
記事を書くため、祖母がしたためた手記を読んだり、被爆前の家族写真を見たりするうちに、「被爆3世」の役割を考えるようになった。程なく市が「家族伝承者」の養成制度を新設。取材で出会った被爆体験伝承者たちに背を押された。信念を持って活動する姿に接し、私も祖母が生きているうちにできる限りのことをすると決めた。
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川﨑梨乃さん(32)=東広島市=は既に祖父(92)の体験の聞き取りを始めているという。私と同じワーキングマザー。不安もあるが「自分の他に伝えていく人はいない」と言われ、共感を覚えた。
10月に語り方のこつを学ぶ。家族伝承の研修では肉親の被爆体験を約1万字にまとめ、さらに計3回の実習に入る。最短1年で「デビュー」する人もいるが、私は時間がかかりそう。仕事や育児と両立しながら、祖母ら被爆者から託された思いを新聞活字と講話で伝える担い手へ、歩を進めたい。
(2024年7月29日朝刊掲載)