8・6紙面 94年分閲覧可能に 1930年から 本紙ウェブサイト更新
24年7月29日
中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターは、被爆翌年の1946年から昨年までの8月6、7両日付朝刊1面を公開しているウェブサイト内のコーナーを更新。30年から44年までの8月6、7両日付と45年8月6日付を加えた「朝刊1面 1930年~」とし、計94年分をPDFで閲覧できるようにした。
30年は満州事変の前年で、「昭和恐慌」が色濃かった時期。日中戦争に突入した翌年の38年は戦時総動員体制が強まり「統制諸法令違反は反国家的行為」などと伝える。特に41年以降、太平洋戦争中は「大本営発表」のプロパガンダ記事が前面に押し出されている。
主な掲載は軍と政治の動向を伝える配信記事だが、36年はスポーツ選手の奮闘も記す。ナチス政権下のドイツ・ベルリン五輪である。
一発の原爆で広島が壊滅した45年の「あの日」の朝刊は、既に敗戦間際だったにもかかわらず社説で「この非常の事態を克服することこそ戦勝への唯一つの途(みち)」と訴える。翌7日の紙面はない。市中心部の本社屋は全焼。他の新聞社に代行印刷を依頼し、発行を再開したのは9日付からだった。
45年まで15年間の記事と見出しに目を凝らせば、太平洋戦争のはるか以前から一貫していた日本の軍国主義と対外進出、本紙をはじめとする報道機関の戦争協力ぶりが浮かび上がる。戦後は一転、連合国軍総司令部(GHQ)による占領下での復興、冷戦期の原水爆禁止運動などとともに毎年の平和記念式典を報じる。戦前の「軍都広島」と戦後の「被爆地広島」。紙面は常に時代を映す。(金崎由美)
(2024年7月29日朝刊掲載)
30年は満州事変の前年で、「昭和恐慌」が色濃かった時期。日中戦争に突入した翌年の38年は戦時総動員体制が強まり「統制諸法令違反は反国家的行為」などと伝える。特に41年以降、太平洋戦争中は「大本営発表」のプロパガンダ記事が前面に押し出されている。
主な掲載は軍と政治の動向を伝える配信記事だが、36年はスポーツ選手の奮闘も記す。ナチス政権下のドイツ・ベルリン五輪である。
一発の原爆で広島が壊滅した45年の「あの日」の朝刊は、既に敗戦間際だったにもかかわらず社説で「この非常の事態を克服することこそ戦勝への唯一つの途(みち)」と訴える。翌7日の紙面はない。市中心部の本社屋は全焼。他の新聞社に代行印刷を依頼し、発行を再開したのは9日付からだった。
45年まで15年間の記事と見出しに目を凝らせば、太平洋戦争のはるか以前から一貫していた日本の軍国主義と対外進出、本紙をはじめとする報道機関の戦争協力ぶりが浮かび上がる。戦後は一転、連合国軍総司令部(GHQ)による占領下での復興、冷戦期の原水爆禁止運動などとともに毎年の平和記念式典を報じる。戦前の「軍都広島」と戦後の「被爆地広島」。紙面は常に時代を映す。(金崎由美)
(2024年7月29日朝刊掲載)