旧制広島一中 被爆前の姿 1940年卒業アルバム 同窓会に寄贈 クラス写真や運動会の様子収録
24年7月29日
旧制広島一中(現国泰寺高、広島市中区)の1940年の卒業アルバムを、持ち主だった吉田英男さん(80年に58歳で死去)の次女順子さん(73)=東区=が卒業生らでつくる「鯉城同窓会」に寄贈した。同校は5年後に米軍の原爆投下により壊滅しており、この年のアルバムは所蔵していないという。
現在も校門に立つ門柱を背に撮ったクラス写真。全国大会で活躍したサッカー部やテニス部などの活動、生徒が競技に汗を流す運動会も活写する。約100ページで、余白には同級生たちの寄せ書きも。「卒業後も此(こ)のアルバムを見る度に私の事を思ひ出して下さいネ」
太平洋戦争に突入する前年で、日中戦争さなかの時期。ゲートル姿の生徒が実弾射撃に臨む写真も収め、巻末に「出征諸先生」一覧を収録する。表紙に刻まれた数字は「1940」「昭和15」ではなく、日本神話に基づき神武天皇の即位年から数えた「2600」だ。
45年8月6日、爆心地から約900メートルの同校と旧雑魚場町周辺は壊滅し、校内待機や近隣での建物疎開作業に出ていた1年生ら生徒353人と教職員16人が犠牲になった。校内のプールには、水を求め力尽きた人たちのおびただしい遺体が浮かんだという。
英男さんも八丁堀(現中区)の自宅を原爆に焼かれ、両親と姉を失った。だが事前に家財道具とともに郊外へ疎開させていたアルバムは残った。戦後、進学した広島高等工業学校(現広島大工学部)応用化学科の43年卒業アルバムとともに保管。順子さんは先日、その一冊も広島大文書館に寄贈することにした。
「戦争の影が青春に忍び寄るさまを伝える記録。役立ててもらえば父も喜ぶはず」と順子さん。同窓会の中野信司事務局長は「一中の歴史を伝え続けるため大切にしたい」と話す。(小林可奈)
(2024年7月29日朝刊掲載)
現在も校門に立つ門柱を背に撮ったクラス写真。全国大会で活躍したサッカー部やテニス部などの活動、生徒が競技に汗を流す運動会も活写する。約100ページで、余白には同級生たちの寄せ書きも。「卒業後も此(こ)のアルバムを見る度に私の事を思ひ出して下さいネ」
太平洋戦争に突入する前年で、日中戦争さなかの時期。ゲートル姿の生徒が実弾射撃に臨む写真も収め、巻末に「出征諸先生」一覧を収録する。表紙に刻まれた数字は「1940」「昭和15」ではなく、日本神話に基づき神武天皇の即位年から数えた「2600」だ。
45年8月6日、爆心地から約900メートルの同校と旧雑魚場町周辺は壊滅し、校内待機や近隣での建物疎開作業に出ていた1年生ら生徒353人と教職員16人が犠牲になった。校内のプールには、水を求め力尽きた人たちのおびただしい遺体が浮かんだという。
英男さんも八丁堀(現中区)の自宅を原爆に焼かれ、両親と姉を失った。だが事前に家財道具とともに郊外へ疎開させていたアルバムは残った。戦後、進学した広島高等工業学校(現広島大工学部)応用化学科の43年卒業アルバムとともに保管。順子さんは先日、その一冊も広島大文書館に寄贈することにした。
「戦争の影が青春に忍び寄るさまを伝える記録。役立ててもらえば父も喜ぶはず」と順子さん。同窓会の中野信司事務局長は「一中の歴史を伝え続けるため大切にしたい」と話す。(小林可奈)
(2024年7月29日朝刊掲載)