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社説・コラム

[A Book for Peace 森田裕美 この一冊] 「明日(あした) 一九四五年八月八日・長崎」 井上光晴著(集英社文庫)

前日の営み 非人道性告発

 本書のタイトルが示す「明日」がいかなる日か。副題の「一九四五年八月八日・長崎」に、過去を知る私たちはピンとくる。米国が広島に続いて長崎にも原爆を投下し、あまたの命を奪い去った日である。

 本書は、核や差別など人間社会が抱える問題を問い続けた作家井上光晴(1926~92年)が1982年、世に送り出した小説だ。原爆さく裂の瞬間も被爆の惨状も描かれない。前日の市井の日常をつぶさに描くことでそれを破壊した原爆の非人道性を告発する。

 物語の軸は、この日催された徴用工員の庄治と看護師ヤエの結婚式。戦況悪化で物資も乏しい中、何とか調えた祝宴にも申し開きが必要な時世だ。新郎新婦、家族、友人たち列席した人々の背景が、時代の空気とともに順に明かされていく。

 ヤエの同僚亜矢は子を身ごもるが、相手と音信不通で悩んでいる。叔母ハルは、役所の権力争いに巻き込まれ浦上刑務支所に収監された夫の身を案じる。庄治の友人継夫は世話になった看護師にひそかな思いを寄せ…。

 それぞれの物語には戦争が暗い影を落とすものの、見えてくるのは今と変わらぬ人間の感情や日常だ。

 最終章が描くのは、9日の明け方。ヤエの姉ツル子に赤ちゃんが誕生し、こんな一文で幕を閉じる。〈夜は終り、新しい夏の一日がいま幕を上げようとして、雀(スズメ)たちの囀(さえず)りを促す〉

 翌日のかの地を知るだけに、希望に満ちた言葉に胸が締めつけられる。できることなら原爆搭載機を止めに行きたくなる。

 核が存在し続ける世界で、井上が警鐘を鳴らした「明日」は、現代の明日に通ずることをあらためて肝に銘じる。

これも!

①井上光晴著「地の群れ」(新潮文庫)
②井上光晴著「虚構のクレーン」(小学館P+D BOOKS)

(2024年7月29日朝刊掲載)

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