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連載・特集

歴代首相と「8・6」 <上> 1970~80年代

 広島に今年もまた、原爆の日が来る。犠牲者を悼む式典で首相があいさつをする。当たり前に思える光景も、継続出席は30年前から。かつては顔を出さない年もあった。歴代首相が「8・6」とどう向き合ってきたか振り返る。(編集委員・下久保聖司)

中曽根氏が慣例化 舌禍も

歴史的出席 佐藤栄作氏から

 広島女学院大の元教授で、膨大な原爆資料に当たってきた「ヒロシマ史家」の宇吹暁(77)=呉市=は、首相の被爆地訪問を年表にまとめている。

 被爆の2年後に開かれた「第1回平和祭」を源流とする広島の平和記念式典。首相で初めて出席したのは1971年の佐藤栄作だった。その誘因を、宇吹は同年4月の出来事にみる。「天皇陛下の原爆慰霊碑訪問で政府も『8・6』への関心を強めたのだろう」

 戦後10人目の首相。それまで被爆国政府のトップは式典に閣僚を差し向け、あいさつも代読で済ませていた。歴史的な出席を果たした佐藤は「これまでにも増して、その福祉の増進を図る所存であります」と訴えた。

「帰れ」コール

 ところが拍手は乏しく「帰れ」コールも浴びる。花輪を持って原爆慰霊碑に向かう途中、女性が飛び出し、警備員に取り押さえられる一幕も。沖縄返還交渉や大学紛争鎮圧で強行姿勢を取った佐藤に対しては、アレルギーが確かに存在した。

 続く田中角栄で出席が途絶えるも、76年の三木武夫は違った。同年6月に核拡散防止条約(NPT)を批准。広島、長崎の式典に初めてダブル出席した。広島では「核兵器を全廃し、人類を核の脅威から解放することこそ真の平和への道」と唱える。原爆資料館でガラスに顔が付くほどのぞき込んだのは、元中国新聞社カメラマンの松重美人(よしと)が撮った被爆直後の写真だった。「こんな写真がどうして残っていたのか」。職員を質問攻めにした。

世界への訴え

 三木の振る舞いを、宇吹はどう見るか。率直に評価する一方、外相経験もある宰相の腹の内を探る。「8・6式典に触れ、これは国際社会に訴える重要な意味があると思ったのではないか」

 福田赳夫、大平正芳はともに出席ゼロ。鈴木善幸は81年に広島、82年に長崎の式典に出る。まちまちだった出席を慣例化したのは中曽根康弘だった。83~87年、両被爆地の式典を交互に訪れた。

 元海軍主計将校。政界では「タカ派」と呼ばれた。83年の広島。非核三原則の堅持を誓うが「うそをつくな」とやじられる。原爆養護ホームではとんでもない発言をした。お年寄りに向け「病は気がめいるから起こる。根性がしっかりしていれば病気は逃げる」。

 80年代末期。政治の劣化は極まる。リクルート事件の渦中にあった竹下登は国会対応に追われ、88年の広島の式典前日に欠席を表明。宇野宗佑は自らの女性問題などで89年7月の参院選に大敗。既に退陣表明をした身で広島に来た。被爆者団体は「これまで被爆者援護法を何回要求しても実現していない。まして死に体の首相に求めて、どうなるのか」とこぼした。

 自民党が実権を握り続けた「55年体制」。8・6での歴代首相の言動はヒロシマ史家の宇吹にどう映ったか。「いずれも先の大戦を知る世代。真剣に平和を願う気持ちは今どきの首相たちより強かったのではないか」 (文中敬称略)

(2024年7月31日朝刊掲載)

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