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連載・特集

『生きて』 脚本家 池端俊策さん(1946年~) <2> 呉の幼少期

敗戦の爪痕 鮮明に記憶

  ≪1946年1月、呉市で生まれる≫

 れんが倉庫のある海岸沿いの家で育った。母の実家で米問屋をやっていた。倉庫は今でも残っている。管理するのも壊すのも大変なんだろうなあ。

 呉は、敗戦の爪痕が至る所に残っていた。叔母に連れて行ってもらった公園での出来事を鮮明に覚えている。米軍に接収されていたのか、周囲には金網が張り巡らされていた。でも金網に開いた穴から、みんな入って日なたぼっこをしたり、走り回ったりしていた。そしたら突然、誰かが「MP(憲兵)が来たー」って叫ぶんだ。みんなくもの子を散らすように逃げ出した。子ども心に大きなショックだった。

  ≪5歳の頃、父鉄策さんが海上保安庁に入り、母恵美子さん、3歳下の弟俊二さんとともに京都府の舞鶴に移った。小学3年で呉に戻る≫

 生まれ故郷に戻れたときは、うれしかった。祖父母もいるしね。ところが5年生のときに大病を患ってしまう。敗血症。血液にばい菌が入って、高熱を繰り返した。心臓弁膜症にもなった。親戚がみんな見舞いに来てくれるんだけど、廊下で泣いてた。僕は10歳ぐらいで死んだはずだったんだけど、良い薬に当たって助かった。

 半年ほど入院した。病室の窓から、ずっと同じ風景を眺めていた。「人生って、そんなに幸せじゃないぞ」。つくづく思ったね。そんな時、高校生のいとこが退屈だろうからと本を差し入れてくれたんだけれど、なぜか樋口一葉とか暗い本が多かった。

 古い日本語の文章に苦労したけれど、時間はたっぷりあったからね。初めて読んだとき、とても心を動かされた。不幸な境遇にあっても何か光を見いだそうと、もがく女の子の話。自分も文学に携わる生き方をしてみたいと思った。物書きに憧れた、最初のきっかけだったんじゃないかなあ。

(2024年7月31日朝刊掲載)

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