×

連載・特集

歴代首相と「8・6」 <中> 1990年代

継続出席 村山氏がレール

地元の宮沢氏 政局で断念

 大分市に暮らす100歳の元首相から電子メールが届いた。「ヒロシマ、ナガサキの惨状を知ったのは、戦争が終わり復員してからのこと。その被害の大きさに驚き『絶対に戦争なんかしちゃいかん』と、より強く思うようになった」。差出人は村山富市。中国新聞の書面質問に答えた。

 1994年、自民党、社会党、新党さきがけの3党連立政権で首相に就いたのが社会党の村山だった。「8・6」「8・9」両式典に出席。「何としても被爆者救済をやり遂げるという決意を込めての出席だった」と振り返る。首相の継続出席はここに始まり、ことしで30年の節目となる。

三権の長並ぶ

 式典を重んじる村山の信念がより強く表れたのが被爆50年の95年だ。衆参両院議長、最高裁長官と連れ立ち「三権の長」が初めて顔をそろえた。式典あいさつで核兵器廃絶を訴える村山に呼応したのが衆院議長の土井たか子。「核保有国があけた恐怖の穴をふさぐまで核廃絶を求め続けねばならない」。原稿は前夜まで何度も手を入れたという。

 では、村山前後の被爆国政府のトップはどうだったか。90年代最初の首相は海部俊樹。就任1年目は広島、長崎の両式典に出席し、広島の原爆資料館で芳名録に「平和への誓い」と記した。

またがず退陣

 後を継いだのは宮沢喜一。憲法の平和主義を重んじる「ハト派」の代表格ながら、首相在任中、地元広島の式典に出なかった。隔年で両被爆地に行くのが当時の慣例。まず92年に長崎へ、93年は広島の番だった。ところが政治改革が頓挫する。衆院解散総選挙で振るわず、退陣を表明。新政権のトップを選ぶ国会日程と重なり、「8・6」式典出席を断念した。

 続く細川護熙(もりひろ)、羽田孜(つとむ)の両政権は短命で「8・6」をまたがずに退陣する。当時は政界再編のうねりの中。政策の方向性が定まりにくい状況だっただけに、羽田の後を受けた村山の被爆地重視の姿勢がなおさら際立つ。

 村山が敷いた式典出席のレールをつないだのは橋本龍太郎。「日本遺族会の会長も務めた。彼なりに被爆地と向き合おうとしたのだろう」と、元広島女学院大教授で「ヒロシマ史家」の宇吹暁(77)は一定に評価する。  97年の広島の式典当日にあった「被爆者団体から要望を聞く会」。一部の団体が「セレモニー化している」とボイコットしたことを踏まえ、橋本は官僚の用意した答弁書に頼らず話をした。

 小渕恵三は99年の広島で当日の予定を急きょ変更。広島の平和記念公園内に移設されたばかりの韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪れ、献花した。

 被爆国政府のトップの使命とは―。村山はこう説く。「核兵器の究極の廃絶を目指し、平和国家として、国際的な軍縮を積極的に推進していく責任がある」=文中敬称略(編集委員・下久保聖司)

(2024年8月1日朝刊掲載)

年別アーカイブ