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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 岩崎誠 仁科芳雄と戦時研究

時代に翻弄 科学者の苦悩を思う

 戦後79年の夏に、仁科芳雄博士(1890~1951年)の足跡と役割について考えてみた。

 岡山県里庄町出身で「日本の原子物理学の父」とされる。量子力学の理論を欧州で学んだ博士が心血を注いだのが東京の理化学研究所(理研)だった。戦前から自由な気風で気鋭の研究者が集う仁科研究室は世界水準を誇った。

 戦時下の動向を深く知りたいと思ったのは米映画「オッペンハイマー」がきっかけだ。マンハッタン計画で原爆開発を担った物理学者とは、ある意味で重なる。仁科博士が日本の原爆開発計画に関わったのは歴史的事実である。

 仁科の頭文字から「二号研究」と称された秘密計画は実用化に遠いまま打ち切られる。皮肉なことに、その研究は被爆直後の広島に赴いた博士が大量破壊兵器の正体を見極めるのに生かされた。

 現在は埼玉県和光市にある理研を訪ねた。博士の名を冠する「仁科加速器科学研究センター」に、生前の研究室がおととし再現されたからだ。愛用の机や椅子、理研に属した湯川秀樹、朝永振一郎という後のノーベル賞受賞者らと討論する等身大パネル…。37年と43年に最先端の大小のサイクロトロン(粒子加速器)を完成させ、核物理学や放射線生物学の研究に生かした成果が映像で語られる。

 この場で戦時研究には触れないのは「負の歴史」ゆえだろうか。ただ理研の歩みを伝える所内のギャラリーに行くと、原爆調査の報告原稿などの展示で二号研究に言及していた。原爆との関わりは博士を語る上で避けて通れまい。

 その点で触発された本がある。科学史家の伊藤憲二・京都大大学院文学研究科准教授による評伝、「励起―仁科芳雄と日本の現代物理学」(みすず書房、上下巻)。昨年刊行され、1次資料の徹底分析で博士の思考の変遷に迫る。ゆかりの仁科記念財団(東京)で近年発見された約1500通の直筆書簡の手控えも読み解いた。

 京都大の研究室で語り合った。二号研究についてはマンハッタン計画との後付けの比較で正しくない言説が流布したとするのが、伊藤さんの見解だ。一つは陸軍航空技術研究所の元陸軍中将の証言。仁科博士から原爆製造に関する実験研究に着手する用意がある、と40年に持ちかけられたと戦後に語り、いわば定説化していく。

 それに先立つ38年にドイツの化学者ハーンらが原子核分裂を発見し、その連鎖反応による巨大エネルギーは主要国の関心を集めていた。日本で兵器への応用を先に考えたとすれば軍の方であり、博士から提案したとは考えにくいという。彼が考えたのは連鎖反応の可能性を確認し、エネルギーを取り出す基礎研究と思われる、と。

 現に日米開戦を前に41年9月、陸軍が理研に委託したのもウラン原子核の分裂によるエネルギー源の研究である。おそらく石油確保への懸念からであり、「原爆開発というよりも、戦時核エネルギー研究と呼ぶのが妥当」と伊藤さんは説く。研究の性質を変えたのが戦局悪化という。挽回への驚異的な新兵器として軍は原爆に過剰に期待し、戦意高揚のため新型爆弾開発の情報は国民にも流れる。

 マンハッタン計画とは全く異なり、理論研究も不十分である上に人員も資材も圧倒的に乏しい。それでも核分裂のエネルギーを「爆薬」に利用する可能性を、博士は蒸気タービンの動力源と併記で43年になって報告する。かくして陸軍の要請で原爆開発研究が正式に始まり、ウラン濃縮に向けた「六フッ化ウラン」製造や鉱石の調達を試みるが博士は早期実用化は無理と判断していた。米国が着々と前に進めているのを知らずに。

 成算なき戦時研究になぜ深入りしたのか。博士は本筋の研究で重視した2番目の「大サイクロトロン」への資金を陸軍に仰ぎ、若い研究者たちを戦場に送らないよう軍の側に頼み込んでいた。大きな借りを背負う中で研究を取り巻く虚像と現実の板挟みに揺れ、苦悩したのが実像かもしれない。戦争に翻弄(ほんろう)され、研究の役割が変質することの教訓が読み取れる。

 遺稿集「原子力と私」を読むと博士は広島と長崎で見た惨状を踏まえ、誓っている。戦争を再び起こさないのは科学者の義務であること。原子力の国際管理を徹底すべきこと―。49年に発足した日本学術会議の副会長に就き、軍事研究拒否を打ち出した。その重みを今こそ見つめ直すべきだろう。

 理研の研究センターでは世界最先端の「超伝導リングサイクロトロン」も見せてもらった。博士のサイクロトロン1号から数えて、9代目になる。それを核とする一大研究施設で医療や農業も含む多様な応用研究が続く。「加速器はあらゆる分野に役立てるべきだという仁科精神が息づいている」と説明を受けた。科学はやはり、世のため人のためでありたい。

(2024年8月1日朝刊掲載)

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