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遺品に秘めた妹の記憶 娘へ 焦土で見つけた名札や学徒隊章… 原爆投下の翌日 行方捜し歩いた福山の重山さん

 「明るくて、責任感があって、とにかくかわいかった」。福山市の被爆者、重山初枝さん(99)は原爆投下の翌日、焦土と化した広島市中心部で、広島県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)1年だった妹の倉西美智枝さん=当時(13)=を捜し歩いた。見つけられたのは身に着けていた名札など数点。被爆79年を迎え、遺品に秘めた惨禍の記憶を娘へ託した。(山下美波)

 「廣島第一縣女 倉西美智枝 血液型O型」。名札にはハート形の校章が添えられている。ほかには学徒隊章や身元票。初枝さんのもう一人の妹加藤千寿枝さん(2006年に78歳で死去)の西区の旧宅で、仏壇に納められていた。「私が持ち帰ったの」。初枝さんはそう言って、79年前の惨状を初めて長女の長谷川洋子さん(67)=福山市=に明かした。

建物疎開に動員

 初枝さんたち一家は荒神町(現南区)で暮らしていた。1945年8月6日、県女1年生は建物疎開作業に動員され、爆心地から約800メートルの土橋地区(現中区)へ。美智枝さんは珍しく行くのをぐずったが、「級長さんでしょ」と母に送り出され、手を振って玄関を出た。それが家族との別れになった。

 米軍が市中心部に原爆を投下。初枝さんは母と自宅で被爆した。近くで大やけどを負った父を看病する母を残し、7日早朝、行方知れずの妹を捜しに出た。

 土橋町付近の建物の陰で妹のお気に入りの水玉模様のブラウスの切れ端を見つけた。県女1年生は己斐国民学校(現西区の己斐小)に収容されたと知り、向かった先であまたの死に直面した。

 「全身魚がこげた様に黒く髪は焼け、体は水ぶくれて、人間の姿ではなかった」。妹の手掛かりを求め「何人も何人も素手で、少しでも焼け残った衣服があればとさがして見たが見つからなかった」。聞き取った千寿枝さんが手記に残している。

 美智枝さんは既に他の遺体と一緒に火葬されていた。初枝さんは校庭に並べられた名札などの遺品を持ち帰るしかなかった。その場にいた県女の教員が、生徒がいないか呼びかけた時に大やけどした美智枝さんが同級生と正座し、手を挙げた、と教えてくれたという。父は8日、「寂しくないように私も逝くよ」と末娘の元へ旅だった。

夢にうなされる

 初枝さんは今年に入ってせきを切ったように洋子さんに被爆体験を語った後、夢にうなされた。「おっとりした母が爆心地周辺を1人で捜し回ったなんて。ずっと傷を抱えて生きていたんですね」

 仏壇からは美智枝さんの写真も数枚見つかった。1枚は県女卒業生の初枝さんの制服姿に、幼い頃の笑顔を重ねた戦後の合成写真だった。「県女に通った証しを残したかったのでしょう」。巡り来る8月6日。原爆に未来を断ち切られた少女の存在を一層身近に感じ、洋子さんは手を合わせる。

(2024年8月2日朝刊掲載)

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