歴代首相と「8・6」 <下> 2000年代
24年8月2日
麻生氏 救済へ政治決断
足早に駆け抜けた小泉氏
「政治家が小物になった。決断を避け、薄っぺらい言葉でその場を取り繕う。首相も2、3世議員となれば、なおさらだ」。歴代首相と向き合ってきた日本被団協代表委員の田中熙巳(てるみ)(92)=埼玉県新座市=は嘆く。
2000年の広島。森喜朗は原爆資料館の芳名録に「栄光と悔恨の二十世紀」と記した。核の惨禍を伝える施設で、なぜ前世紀に「栄光」という言葉をかぶせるのか。表現力と配慮を欠いた人の後釜は対照的。政治パフォーマンスにたけた小泉純一郎が21世紀初の「原爆の日」を迎えたヒロシマを駆け巡った。
金色の折り鶴
式典に続き原爆養護ホームを訪問。原爆資料館ではポケットから金色の折り鶴を取り出し、寄贈した。一方で切実な声に触れる「被爆者代表から要望を聞く会」への出席は、この年が最初で最後となる。広島滞在の時間はどんどん短くなり、05年の式典後、足早に向かったのは福山市内の美術館。中国美術の鑑賞という趣味を優先させた。
小泉の後、ころころ首相が代わる。安倍晋三、福田康夫、麻生太郎。国民の支持を失い、自民党下野の前夜ともいえる09年の広島で、麻生は称賛を浴びる。
原爆症認定集団訴訟を巡り、全員救済の方針を被爆者に伝えた。いわゆる「8・6決着」。その舞台裏を日本被団協事務局長だった田中が語る。
最後まで抵抗する官僚たちを押し切ったのは、被爆者援護に取り組んでいた官房長官の河村建夫だという。田中は回想をこう続ける。「決着を告げた場面で首相の表情は硬かった。本心はどうなのか。私には分かった」
政権交代を果たした民主党政権から、式典に出た首相は2人。菅直人は被爆者を「非核特使」として国際的な場に派遣する考えを示す一方、「核抑止力は必要」と述べた。野田佳彦は広島原爆の「黒い雨」被害の援護対象となる地域拡大について「科学的、合理的根拠がないと難しい」。自民党政権との違いは打ち出せなかった。
文面半分同じ
安倍が政権奪還を果たし第2次政権を打ち立てるが、2年目の14年に広島式典で物議を醸す。読み上げたあいさつは前年の文面と半分近く同じ。俗に言う「コピペ」だ。その後も歴代首相が堅持を誓った非核三原則にあいさつで触れなかったり、核兵器禁止条約の批准に後ろ向きな発言をしたり。安倍の国家観と、被爆地の願いは年々隔たりが広がった。
菅義偉の評価は割れる。失態は21年の式典あいさつ。核兵器の非人道性などに触れる重要なくだりを読み飛ばす。一方で被爆地を歓喜させたのは「黒い雨」訴訟を巡る政治決断だ。敗訴が続いた国側の上告断念を決め、原告救済を急いだ。
岸田文雄は就任3年目。被爆者たちの思いを田中が代弁する。「核兵器廃絶を米国に直接迫ってほしい。被爆地広島選出なのだから」。歴代首相と異なる境地。そこに踏み込んでこそ、真の意味で被爆国政府のトップといえる。=文中敬称略(編集委員・下久保聖司)
(2024年8月2日朝刊掲載)