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連載・特集

広島市8・6式典 都道府県遺族代表の思い <下> 初参列 語り継ぐ原動力に

柴田杉子(61)=鳥取

 父伊谷周一、17年12月30日、88歳、骨髄異形成症候群

 陸軍経理学校の受験のため父は鳥取から広島に訪れていた。爆心地から1キロの堀川町(現中区)で被爆。受験仲間を助けられなかったことに罪悪感を抱き、戦後60年の時に遺族に謝罪していた。被爆2世と交流し、継承の手だてを考えたい。

古藤春美(74)=島根

 父栄、12年5月8日、89歳、脳梗塞

 海軍兵だった父は紙屋町(現中区)で被爆した。当時を語らなかったが、亡くなる直前まで被爆者団体で相談員を務めていた。父の背中を見て私も相談員をしている。父が行きたがっていた広島を肌で感じ、これからの平和につなげていく。

池田昭憲(64)=岡山

 父健二、23年5月5日、92歳、老衰

 中国配電(現中国電力)の青年学校に通っていた父は、爆心地から2キロの舟入本町(現中区)にあった寮で被爆した。亡くなるまで原爆を思い起こさせる花火の音を嫌っていた。初めて参列する式典で、戦争や核の脅威がなくなるよう願う。

杉川理恵(64)=広島

 父友宗清、20年5月6日、91歳、慢性心不全急性増悪

 父は吉島本町(現中区)の航空機工場に学徒動員されていたが、8月6日は尾道の実家に帰っていた。7日に工場に行き遺体やがれきの片付けをしたという。晩年は多くの病気にかかった。式典参列は初めて。体験を語り継ぐ原動力にする。

折出真喜男(92)=山口

 妹の義姉山本和子、45年8月6日、15歳、被爆死

 会ったことはないが、安田高等女学校の生徒だったと聞いている。私も当時修道中2年で、建物疎開作業中の多くの同級生を失った。列車に乗り遅れ運良く生き延びた申し訳なさは消えない。戦争の悲惨さを伝えていくのが生かされた使命だ。

小西誠一(71)=徳島

 母房江、22年5月17日、97歳、肺炎

 陸軍船舶司令部(暁部隊)に勤めていた母は、大河国民学校(現大河小)で原爆被災者の救援に当たった。戦後は病弱で、よく寝込んでいた。約30年前に広島を訪れた時、原爆資料館へ誘ったが「つらいことは見たくない」と入らなかった。

岡田洋子(74)=香川

 父松岡守、17年9月7日、91歳、老衰

 父は国鉄(現JR)で貨物列車の機関士をしていた。あの日、荷物を運んで岩国から広島に入り、川で亡くなった人を弔うのを手伝った。家族に入市被爆の体験を語ったのは約40年後だ。苦しんだ人たちが安らかに眠れるよう手を合わせる。

永安哲也(60)=愛媛

 母和子、21年6月17日、90歳、老衰

 母はあの日、通っていた高等女学校の校舎にいて助かった。家族の集合場所を決めていたが、何もかも吹き飛び、市内を一晩中さまよったという。毎年夏に、原爆の話をしてくれた。犠牲者の多くは一般市民。原爆投下は最悪の行為だ。

西村茂(71)=高知

 父健好(たてよし)、20年1月2日、95歳、老衰

 陸軍にいた父は広島城(現中区)のそばで被爆した。気が付くと灰だらけの中に倒れていたと聞く。大勢の人が川に飛び込む姿を「地獄のようだった」と言っていたのが忘れられない。初の参列。父の話を思い浮かべ、慰霊したい。

野村善満(77)=長崎

 母ヨシヱ、22年6月28日、95歳、肺炎

 母は下蒲刈島から身内に会うため広島市へ向かい、汽車を降りた広島駅で被爆した。爆風で何かの破片が右太ももに刺さり、傷痕が残っていた。詳しくは語らなかったが「お前が見たら気絶する状況」と言っていた。平和を願い、母の写真とともに式典に臨む。

与那嶺善道(66)=沖縄

 父盛徳、21年2月1日、96歳、誤嚥(ごえん)性肺炎

 父は海軍にいて、原爆投下の2、3日後に入市被爆した。戦後は肝臓を患い入院もした。戦争体験を尋ねても、つらそうな表情をするだけで何も語らなかった。沖縄戦を経験した母も2月に亡くなった。広島で両親の苦労に思いを巡らせる。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。

(2024年8月5日朝刊掲載)

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