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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 三登登美枝さん―父失い 胎内の子も被爆

三登登美枝(みととみえ)さん(106)=広島県府中町

106歳 焼け野原になった自宅跡を79年ぶり再訪

 106歳(さい)の三登登美枝さんは、27歳のとき「優(やさ)しくて大好きだった」父を原爆に奪(うば)われました。自身も広島壊滅(かいめつ)の3日後、妊娠(にんしん)4カ月で市中心部に入ったため翌年(よくねん)出産した長男は胎内被爆者です。79年前を思い出すのはつらく、進んで体験を語らずに生きてきました。

 1945年8月6日は、空襲(くうしゅう)を避(さ)けようと嫁(とつ)ぎ先の小町(現中区)から畑賀村(現安芸区)の実家に疎開(そかい)していました。朝、外に出ると飛行機の音が聞こえました。その後「ドーン」というごう音が。近所の人たちと近くの山へ上がると、広島方面は火の海です。しばらくして負傷者(ふしょうしゃ)が次々運ばれてきました。

 父の穴田宝一さん=当時(52)=と夫の義雄さん=同(37)=が市内へ出勤(しゅっきん)したまま帰りません。母マスさん=同(50)=たち家族とともに、心配のあまり「おろおろするばかりでした」。

 午後9時ごろ「ただいま」と父の声が聞こえました。顔は黒くすすけて前後の区別がつかないほど。服は裂(さ)け、ワカメをぶら下げたようでした。爆心地から約700メートルの土橋電停(現中区)近辺で土蔵(どぞう)の下敷(したじ)きになりながら命びろいをしたそうです。

 広島師範(しはん)学校(現南区)教員の義雄さんも2日後に戻(もど)ってきました。校内で被爆後、学生の救助に手を尽(つ)くしていました。2人とも生きて帰ったことに胸(むね)をなで下ろしたのを覚えています。

 ところが20日ごろから宝一さんが寝込(ねこ)むようになります。体中に赤い斑点(はんてん)が出て「臭(くさ)い魚の内臓(ないぞう)のような塊(かたまり)」を洗面(せんめん)器に吐(は)き、9月3日、息絶えました。医師から「毒ガスが傷口(きずぐち)から入った」と言われました。

 父は食糧(しょくりょう)に事欠く戦時中、畑賀村から小町へよく弁当を届(とど)けてくれました。中には貴重な白米と野菜。優(やさ)しい面影(おもかげ)を思うと、今も涙(なみだ)が出ます。

 登美枝さんも入市被爆しました。9日、片道(かたみち)約10キロを歩いてたどり着いた市街地は焦土(しょうど)と化し、道端(みちばた)にむしろを掛(か)けた遺体(いたい)が横たわっていました。爆心地から約800メートルの自宅は、門柱や石のちょうず鉢(ばち)が残る以外に跡形もありません。くすぶる地面から義母のかんざしを見つけ、「寂(さび)しくて胸がいっぱいになった」。

 その時おなかにいたのが、翌46年1月に生まれた浩成さん(78)=広島県府中町=です。子どもの頃(ころ)は病弱で、心配ばかり。胎児(たいじ)は大人よりも放射線(ほうしゃせん)の影響(えいきょう)を受けやすいことが後の研究で分かっていますが「当時はよく知らず、被爆と病気を結びつけて考えていなかった」と振り返ります。

 登美枝さんも、やはり市中心部の惨状を目の当たりにした生前の義雄さんも、家では「あの日」について一切語りませんでした。しかし浩成さんは「生まれた時から被爆者」としての使命感を強め、平和活動につなげていきました。58歳で高校の英語教諭(きょうゆ)を早期退職。一年中原爆ドーム前に立ち、外国人観光客らに英語でボランティアガイドをしています。

 そんな浩成さんに促(うなが)されて7月、登美枝さんは二つのことを心に決め、行動に移しました。

 当時はおなかにいた浩成さんに車椅子(くるまいす)を押され、あの時から一度も足を向けてこなかった自宅跡(じたくあと)を79年ぶりに訪ねたのです。「ここは一面焼け野原でね…」。つらい記憶(きおく)と向き合いました。

 さらに「核兵器(かくへいき)を使うことにつながる戦争はやったらいけん」との思いを託(たく)そうと、中国新聞ジュニアライターの中高生たちに体験を語りました。報道機関の取材に応じたことはありますが、子どもたちを集めての証言活動は初めてです。

 「社会が戦争に向かっても、はねのける力を持って行動してほしい」。約90年前に学校で習った英語「Do your best(ベストを尽くして)」と共に呼(よ)びかけました。106歳の今、自らの胸にも刻(きざ)んだ言葉です。(小林可奈)

私たち10代の感想

「熱量」持って受け継ぐ

 死にどんどんと近づく家族を見るのは苦痛以外の何物でもありません。それなのに何もできないやるせなさ。家族を奪(うば)われた登美枝さんの苦しみは計り知れないものだと思いました。その被爆体験が単なる歴史として忘れられてしまわないよう、「熱量」を持って受け継ぐことが次代を生きる私たちの使命です。(高3田口詩乃)

伝える役割 興味抱いた

 大好きだったお父さんについて話す時、登美枝さんは涙(なみだ)を拭いました。つらい思いをしてもなお、私たちに記憶を語ってくれるのは「戦争は絶対にしてはいけないと伝えたいから」だそうです。私も戦争も核兵器もない世界の実現に貢献(こうけん)したい。平和記念公園のボランティアガイドにも興味を持ちました。(高3小林芽衣)

流されず 社会変えたい

 「戦争の方に社会が行きかけても流されないで」。この言葉が強く印象に残っています。今、ウクライナやパレスチナ自治区ガザなどで争いが絶えません。そんな世界に向けて、仲間と手を取り合って少しでも社会を変える力になりたいと思いました。1人の力は小さくても、きっと大きな力になるはずです。(高2藤原花凛)

 ◆孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2024年8月5日朝刊掲載)

 原爆投下直後に三登さんの自宅近くにあった旧制広島一中(現国泰寺高)のプールが遺体でいっぱいだったということや、市街地には強い臭いが漂っていたということが心に残っています。原爆で犠牲になった父の話をするとき、三登さんの声が暗くなったことも印象的で、三登さんの心の痛みを感じることができました。

 本や新聞、映画を通して被爆者の体験に触れる機会はあります。しかし、被爆者から直接体験を聞くからこそ、浮かび上がる当時の情景、感じることができる被爆者の気持ちがあるということに、あらためて気付かされました。(高2後藤風太郎)

 これまで取材してきた被爆者の中で最高齢の方でした。当時妊娠4カ月だった三登さんは原爆により、家も、大好きだった父も失いました。証言の途中「当時の寂しさやつらさを思い出してしまう」と涙を流していました。それでもなお、私たちに証言をしようと思ったのは「戦争は絶対にしてはいけないと伝えたいから」だそうです。その意志をしっかり受け継いでいきたいです。(高2谷村咲蕾)

 三登登美枝さんは、原爆で父を亡くし、さらに長男の浩成さんを妊娠中に入市被爆しました。当時のつらい経験は、浩成さんたち家族にさえ、あまり話すことはありませんでした。現在106歳で被爆時のことを鮮明に覚えている三登さんの証言を聞けたことは、とても貴重な経験だったと思います。三登さんは長い人生の中で「Do your best.」という言葉を大切にしてきたと話しました。私たちはその言葉を胸に刻み、戦争のない世界を目指す強い気持ちを持ち続けなければならないと思いました。(高2森美涼)

 当時27歳だった三登さんは、今でも鮮明に79年前のことを覚えていました。誰にでも好かれ、優しかった父を無残な形で奪われた三登さんは、思い出したくない体験を、家族にさえほとんど語ってこなかったそうです。「同じような悲劇を起こさないため、戦争はやってはいけない」という強い思いを伝えるため、私たちジュニアライターに証言をしてくれました。その三登さんの思いをしっかり受け継ぎ、三登さんが力強く言っていた「Do your best.」を胸に、平和な社会のためにできる行動をしていきたいです。(高1山代夏葵)

 「戦争を絶対にしてはいけない」。三登さんは力を込めて言いました。たった一発の原爆が大切な人たちの命を奪うことがあってはいけません。「戦争をしてはいけない」という三登さんの言葉をしっかり胸に刻み、戦争がない平和な世界の実現に向けて自分にできることを少しずつでもやっていこうと思います。三登さんの言葉「Do your best.」の姿勢とともに。(中3亀居翔成)

 三登さんは途中、涙を流しました。原爆は、79年がたった今もこんなに強く記憶に残り、思い出すと涙が出てくるような経験をさせてしまうものかと思うと本当に恐ろしく、むごいものなのだと感じました。

 取材中に何度も「原爆投下時のことを思い出すのはつらい」と言っていた三登さんが、今回、力を込めて私たちに伝えていたのは「戦争は絶対にしたらいけない」ということです。戦争によって父や家を失い、とてもつらい経験をした三登さんの言葉にはとても重みがありました。

 家族にもあまり話してこなかった被爆体験を、勇気を出して、私たちに話してくれた三登さんの思いに応えるためにも、三登さんの一生涯の指針である「Do your best.」のもと、自分のベストか、それ以上を尽くさなくてはならないと思いました。(中3川鍋岳)

 現在106歳で、被爆当時妊娠4カ月だった三登さんの証言を聞きました。

 8月6日、疎開をしていた三登さんは、原爆投下後に近所の人たちと近くの山から焼け野原になった広島を見ました。市内へ出ていた父と夫が心配でしかたなかったそうです。

 三登さんの父は6日に帰ってきましたが、顔はすすけて、服はボロボロ。「ゆうれいじゃないか」と思うほどの姿だったそうです。三登さんの父は誰にでも優しい性格で、三登さんは大好きでした。そんな父が1カ月後に亡くなった時、三登さんはとても悲しかったそうです。

 「戦争はやってはいけない。社会が戦争に向かっても、はねのける力を持って行動してほしい」という言葉が一番心に残っています。つらい思いをしてもなお、私たちに証言をしてくれた三登さんの思いを無駄にしないためにも、どんな理由があっても戦争という手段は選んではいけないと感じました。(中3佐藤那帆)

 106歳の三登さんから被爆体験を聞きました。大切な家族が奪われる苦しみ、その苦しみを1発でたらす原爆の恐ろしさを強く実感しました。思い出したくない被爆体験を子どもたちに話すのは、今回が初めてとのことでした。その行動の背景には、被爆者が高齢化する中で世界が核の脅威にさらされていることへの危機感があるのではないかと思いました。三登さんの話を決して忘れないようにし、交流サイト(SNS)で発信したり、広島を訪れる修学旅行生に伝えたりしていこうと思いました。(中3矢澤輝一)

 三登さんは妊娠中に入市被爆し、原爆投下時に広島市内にいた父を1カ月後に亡くしました。たくさんのつらいことに遭い、苦労してもなお力強く106年間生き続けていてすごいと思いました。語りたくも思い出したくもないようなつらい被爆証言をしてくれた三登さんの言葉は一つ一つに重みがありました。そして、若者への期待を感じました。三登さんが力強く伝えてくれた「Do your best.」の精神を大切に、平和な世界をつくるための行動をしていきたいと思いました。(中3行友悠葵)

 三登さんの話を聞いてとても驚いたことがあります。それは、今回が初めての証言活動ということと、106歳という年齢です。三登さんは思い出したくなかった当時のことを私たちジュニアライターに話してしてくれました。

 被爆の影響で亡くなった父の話を始めると、三登さんの目から涙があふれました。愛情を持って育ててくれた父を失った苦しみは、79年たってもなお消えないほど大きなものなのだと実感しました。

 三登さんは「Do your best.」という言葉も伝えてくれました。中学1年の時、英語の先生に教えてもらった英語だそうです。日本語にすると「最善を尽くせ」「頑張れ」という意味になります。これまで、つらい経験をしても必死で生きてきた三登さんの思いを胸に、私も毎日最善を尽くし、戦争のない世界のため行動できる人になろうと思いました。(中1岡本龍之介)

 今回の取材で心に残ったことは、三登さんが涙を流したことです。身近にいた人が1発の原爆で命を奪われる悲しい出来事は、79年たっても、思い出したくないほど、つらいものなのだと思いました。僕だったら、悲しみを超えて怒りに変わるかもしれません。大切な人を奪う戦争は、繰り返してはならないものだと、強く思いました。(中1 森本希承)

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