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連載・特集

被爆79年 あの日、あの食べ物 <上>譲れなかった桃 原爆資料館元館長 原田浩さん(85)=広島市安佐南区

 ささやかな暮らしが奪われたあの日から79年。被爆した街の惨状、戦後の苦難の日々に重なり、忘れられない食べ物がある。被爆者の胸に刻まれた当時の体験とともに、食べ物の記憶をたどる。

胸の奥 封印してきた記憶

女性の必死な懇願 今も鮮明

 これまで国内外の多くの人たちに被爆体験を語ってきた。若者もいれば、作家の故大江健三郎さんや当時のペルー大統領アルベルト・フジモリ氏もいた。焼け跡で見た折り重なる遺体、漂う悪臭…。凄絶(せいぜつ)な体験をつぶさに伝えてきた。だが一つだけ、誰にも話すことなく封印してきたことがある。今もずっと残っている心の傷-。それがあの日、炎の中を握りしめて逃げた桃の記憶だ。

 1945年8月6日、6歳だった。朝早く、現在の東広島市に疎開するため両親と広島駅にいた。汽車を待っていると、父親から桃を一つ渡された。

 それまで食べたことがある果物と言えば、干しバナナか甘みのない柿くらい。貴重な桃を父がどう手に入れたのか分からない。「疎開を前に、子どもの気持ちを明るくしようと調達してくれたのでしょうか」

 初めて目にする桃。「生涯に一度の宝物」を手にしたようで胸が高鳴った。その時、突然目の前が真っ白に。原爆の爆風で駅舎の天井や壁面が崩れ、がれきの下敷きになった。父がかぶさってくれたおかげで一命は取り留めたものの、父は背中に大けがを負った。着ていた白い服が血で染まっていた。

 「早く逃げえ」。周囲から叫び声が聞こえた。炎が迫り来ている。桃を握りしめたまま、父と一緒に必死で走った。

 炎から逃れ、歩き続けた焼け野原。数え切れないほどの死体やけが人が横たわる。そんな中、消え入るような声が聞こえた。振り返ると、皮膚が焼けただれた女性だった。その視線は自分が持っている桃に向けられていた。「その桃、この子たちにちょうだい」。座り込む女性に幼子が2人、力なく寄りかかっていた。

 何度も、何度も懇願された。でも、大切な桃をどうしても手放すことができない。しかし、今にも死にそうな人を前に、知らん顔もできなかった。「6歳ながらに葛藤したんだと思います」。結局、桃を譲ることはできなかった。

 その後、あの桃を食べたのか、どうしたのか記憶はない。ただ、あの女性の姿、桃を差し出せなかった後悔はずっと胸の奥に重く残った。

 大学卒業後、広島市職員を経て1993年、原爆資料館(中区)の館長に就任した。被爆証言の意義と重責を感じながらも、あの桃の記憶は長年人に話せなかった。「あの親子に何もしてあげられなかった、救うことができなかった事実に向き合うことが苦しく、自分の中でそっとしておきたかった」と打ち明ける。

 2018年、基町高(中区)の生徒に被爆体験を伝え、絵を描いてもらうプロジェクトに参加した。どの場面を描いてもらうか。自問自答する中で、桃の記憶にたどり着いた。あの日から79年たった今も桃を見るとあの女性の必死な目が脳裏に浮かぶ。多くの遺体を踏みつけた足の感触も鮮明だ。

 今、桃の記憶を口にすることはほとんどない。「あの女性と子どもにも幸せな日常があったんです」。静かにかみしめる。 (久保友美恵)

(2024年8月5日朝刊掲載)

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