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遺品 無言の証人

[無言の証人] 軍人の遺品

家族の悲しみ 浮かぶ

呼べなかった「お父さん」再会は遺骨で

 今は多くの外国人観光客でにぎわう広島市中区の広島城一帯。ここにはかつて中国地方の軍政を担う中国軍管区司令部が置かれていた。1945年8月6日、米軍が投下した原爆でほぼ壊滅し、ここにいた軍人軍属たちの大半が亡くなったとみられる。焼け跡から見つかった遺品の数々が原爆資料館(広島市中区)に収められている。その一つ一つからは、突然奪われた命や断ち切られた日常、家族の悲しみが浮かび上がる。(新山京子)

 縦4センチ、横3センチほどの楕円(だえん)形の金属片。かろうじて「五師衛 陸軍歩兵准尉竪田豊」と刻まれているのが見える。中国軍管区司令部で被爆死した竪田(たてだ)豊さん=当時(42)=の認識票だ。名前や所属部隊が記され、戦死時の身元確認などに使われていた。

 当時、竪田さんは陸軍少佐として経理などを担う兵務部に勤めていた。司令部は爆心地から約800メートル。一帯は壊滅し、炎に包まれた。焼け跡から見つかったのは、誰が誰か見分けがつかない状態の多くの遺体。竪田さんはこの認識票を握っていたため、本人だと判別できたという。長女の山内(やまのうち)満子さん(92)=東京都=は「父は生前、『私は必ずこの認識票を持って死ぬ』と言っていた」と記憶をたどる。

 職業軍人だった竪田さんは日中戦争が始まると各地を転戦。負傷して帰国後の44年末、同司令部に配属され、妻沢女(さわめ)さんと満子さんの3人で段原東浦町(現南区)で暮らし始めた。長く離れていたため満子さんにはどこか他人行儀で距離があったという竪田さん。「生真面目な性格」でもあった。

 ある日、物差しを使わずに線を引く満子さんを𠮟った。「でも𠮟る時に初めて満子って名前で呼んでくれて。心に残っているんです」。「父」を感じた。「明日は私が『お父さん』と呼ぼう」。心に決めたが、かなわなかった。翌日、原爆が投下されたからだ。

 8月6日、比治山高等女学校(現比治山女子中・高)1年生だった満子さんは校内で、沢女さんは自宅で原爆に遭った。2人は一命を取り留め、いったんは市外に避難。待てども帰らぬ竪田さんを捜して約2週間後、焦土の広島に戻った。

 全焼した司令部跡で、竪田さんの部下から手渡されたのは前面が裂けるように割れた鉄かぶと。「中に骨が入れてありました」と満子さん。それが父との再会だった。

 竪田さんが亡くなった場所を聞き、そこを手で掘ると、愛用の腕時計や、戦地で負傷した際に使って以来お守りのように持っていた手術用はさみなどが出てきた。2人はそれらを形見として持ち帰り、戦後親戚を頼って暮らした三原市の自宅で大切に保管し続けた。

 2001年に沢女さんが死去。結婚を機に長く東京で暮らす満子さんが、「父が亡くなった広島で末永く保管してほしい」と資料館に寄贈を決めた。満子さんの長男玄さん(63)=同=も「家族が持っているより、物言わぬ被爆の証人として多くの人の目に触れる方がいい」と賛同した。

 玄さんはかつて毎年のように満子さんに連れられ、8月6日に司令部跡を慰霊に訪れ、ほかの遺族らと言葉を交わしていた。しかし昨年、高齢の満子さんに代わって訪れた司令部跡に関係者の姿はなかった。被爆から79年がたち、遺族さえ高齢化が進む。「何が起きたのか。亡くなった人たちに代わって伝え続けてほしい」。祖父の形見に思いを込めた。

(2024年8月5日朝刊掲載)

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