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14歳で被爆 初の体験記 広島市南区の島田さん G7が転機に 「残さねば」後輩が手助け

 原爆で父親を亡くした被爆者の島田栄子さん(93)=広島市南区=が被爆79年の今年、初めて体験記をまとめた。語るのをためらってきた14歳の時の惨禍の記憶を次代へ残そうと、かつての職場の後輩の力を借りた。城石葉子さん(65)=中区=で、自身にも両親の戦争体験を聞かなかった後悔があった。(下高充生)

 島田さんは1945年当時、東観音町(現西区)に暮らしていた。広島女子高等師範学校付属山中高等女学校(現広島大付属福山中高)の3年で、8月6日朝は学徒動員されて南観音町の工場にいた。「雷が落ちたように光って」。とっさに机の下にもぐり込み、無事だった。

 その日に自宅に戻ったが、熱くてすぐ立ち去った。2日後、父睦海さん=当時(44)=が倒壊した家屋の下敷きになったと近所の人に聞いた。手伝ってもらって焼け跡から遺骨を掘り出した後、自宅から逃れていた母親とようやく再会できた。

 「うちだけが特別な体験をしたわけではない」と戦後、証言活動はほぼしなかった。ただ、40年ほど前、あの日の記憶を忘れてはならぬとチラシの裏や付箋に書き付けていた。「(母が)己斐の方へ一人で歩いていくのを見たときく。一人だけ助かったのか。父は?不安だった」「白骨をミルク缶に入れ」…。

 昨年5月に市であった先進7カ国首脳会議(G7サミット)が転機になった。80代半ばの被爆者が証言する姿に「14歳だった私は今生きている被爆者の中では大人に近い方。少し視点の違う話ができそう」。そんな思いを広島サミット直後、会社員時代の後輩で40年以上の付き合いがある城石さんに打ち明けた。

 城石さんは島田さん方に通い、手書きメモや記憶をパソコンで整理。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)の体験記の執筆補助事業への応募も勧めた。ことし完成し、島田さんは「記憶を伝えようと思っても、この年で現実的にどうするのか。1人ではできなかった」と喜ぶ。

 東京出身の城石さんは近親に被爆者はいない。ただ父親は中国大陸の戦地に行き、復員後も背中に銃弾が残ったままだった。「撃たれたなら、撃ったのかもしれない。戦場で何があったのか怖くて聞けなかった」。母親からも死体が横たわる空襲の焼け跡を歩いたと聞いたが、心の傷をえぐるようで踏み込めなかった。

 父親は99年、母親は2013年に亡くなった。「聞けるときに聞き、聞いたら残さないといけない」。島田さんの記憶を継承する重みをかみしめている。

(2024年8月3日朝刊掲載)

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