×

ニュース

焼け野原 家族捜した記憶 マツダ車デザイン 前田さん被爆体験記

4月死去 憎しみ封印 米国留学

 原爆で親やきょうだいを失い、のちに東洋工業(現マツダ)でカーデザインの先駆者として活躍した被爆者がいた。前田又三郎さん。焼け野原で家族を捜した日、一度は憎しみを抱いた米国への留学…。4月に91歳で亡くなる前、多くを語ってこなかった記憶を体験記として残していた。(下高充生)

 前田さんは1945年当時、広島市大手町(現中区)に製薬会社社長の父たち家族5人と暮らしていた。広島高等師範学校付属中(現広島大付属中高)の科学学級に通っていたが、8月6日は1人だけ今の庄原市に疎開していた。広島市からけが人が逃れてきて「大きな爆弾が落ちた」と、うわさを聞いた。

母の死を直感

 終戦後すぐに広島へ戻って入市被爆し、変わり果てた街を見た。「広島駅から出てみると、瀬戸内海が見えるほど辺り一面何もなく、また凄(すご)いにおいでした。護国神社から南に向かって歩いたのですが、倒壊した建物ばかりで、黒焦げで体が膨らんだ馬の死体が立っていました」(体験記)

 あったはずのわが家はない。家族は逃げたと信じ、厳島町(現廿日市市)の母ヨシさん=当時(43)=の実家を訪ねると、祖母に抱きしめられた。「その瞬間『母は死んだ』と直感しました」

 母と自宅にいた次姉朋子さん=同(15)=も被爆死。広島県庁付近にいた長姉和子さんは、おなかの赤ちゃんと共に犠牲になった。自宅から命からがら逃げ出た父常次郎さんは原爆症で苦しみ、50歳過ぎて52年に亡くなった。

 前田さんは当初「トルーマンをやっつける」と原爆を落とした米国を恨んだ。ただ進駐軍の車を見て思いが変わる。「車は素晴らしいものでした。アメリカのすごさを見せつけられた」。大学を卒業した後、東洋工業に入り64年に米国へ留学。カーデザインの基礎を持ち帰り、初代サバンナRX―7の責任者を務めた。退職後はデザイン会社を起こし、アストラムラインの車両や駅舎のデザインに関わった。

 「憎しみとデザインの興味を切り分けたんでしょうね。すべてを失いながら、不平不満を一切言わない強い人だった」。長男で、同じマツダでカーデザイナーの道を歩んできた育男さん(65)は尊敬の念を込めて語る。

国際情勢憂う

 前田さんは過ごしていた原爆養護ホームの職員の勧めで国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)の聞き取りに応じ、亡くなる約3カ月前に体験記がほぼまとまった。「生きるために記憶を封印してきたが、残された人生がどのくらいか考えたのでは」と育男さん。その体験記は国際情勢を憂い「核兵器を使おうとしている人たちに『やめておけ』と言いたい」と締めくくっている。

(2024年8月4日朝刊掲載)

年別アーカイブ