×

連載・特集

広島市8・6式典 都道府県遺族代表の思い <上>

 広島市が8月6日に平和記念公園(中区)で営む平和記念式典に、都道府県遺族代表として32人が出席する。平均年齢は70・1歳で、最高齢は92歳、最年少は53歳。父母たちから受け継いだ惨禍の記憶や、核兵器廃絶への願いを3回に分けて紹介する。

父の足取り たどりたい

阿部聖恵(57)=北海道

 父糸沢定雄、20年8月25日、93歳、呼吸不全

 父は家族に体験を話さなかったが、証言動画が残っている。戦時中は江田島で特攻の訓練を受けており、原爆投下翌日に似島(現南区)に渡った。被爆者の救護に当たり、薬も食べ物もなく、多くの人の最期を見届けた。数日後に入市被爆した。

佐々木裕(63)=青森

 父忠雄、22年3月20日、95歳、腎不全

 志願兵だった父は原爆投下後の広島市内に救護活動で入った。遺体の片付けに追われ「地獄だった」と聞いた。再び広島を訪れることはなかった。私は初めての被爆地。原爆資料館をじっくりと見て回り、亡くなった人の冥福を祈りたい。

木村緋紗子(87)=宮城

 父山縣貞臣、45年8月9日、42歳、被爆死

 内科医の父は往診途中に堀川町(現中区)付近で被爆し、3日後に亡くなった。父がいなくなり、私は母と兄弟を支えるため料理も洗濯も掃除も何でもした。子どもではなくなったみたいで、つらくて悔しくて父の墓の前で何度も泣いた。

照井美喜子(69)=秋田

 父喜代治、24年3月1日、97歳、老衰

 暁部隊(陸軍船舶司令部)にいた父は皆実町(現南区)の兵舎で被爆し、負傷者の救護に当たった。昨年、姉妹4人で広島を訪ね、足取りをたどった。県被団協会長を長く務めた父の遺志を継ぎ、入会して平和運動に協力するつもりだ。

桑原慶子(78)=埼玉

 母西村睦与、72年1月24日、66歳、不明

 妊娠中の母は袋町(現中区)の親族を捜しに行って入市被爆した。母の死後、父から私が胎内被爆者だと初めて聞かされた。きっと結婚差別などを心配して明かさなかったのだろう。生前に原爆の記憶を聞けなかったことが一番悔やまれる。

岡本光子(78)=千葉

 母古屋アサカ、85年10月9日、74歳、乳がん

 母はあの日、爆心地から2・8キロの大芝町(現西区)の自宅にいた。おなかの中の私も含め家族全員が助かった。ただ、近所では子どもが行方不明の人もおり「生き残って申し訳ない」と漏らしていた。式典では全ての犠牲者に手を合わせたい。

木村一茂(80)=東京

 母千春、05年2月24日、92歳、肺がん

 己斐町(現西区)の自宅で家族で被爆した。弟は下痢が続き翌年亡くなったため、母は何かと家族の健康を気にかけた。生前は「爆弾は二度と使っちゃいけない」と繰り返していた。核兵器使用の危険が高まる中、孫と一緒に冥福を祈る。

丸山進(84)=神奈川

 姉生代、45年8月6日、12歳、被爆死

 広島女学院高女1年の姉は建物疎開に動員され、雑魚場町(現中区)で被爆した。父は作業場所に向かい遺体を一つ一つ確認したという。「見た中にいたかもしれないが、顔が判別できず悔しかった」と十数年たってから涙ながらに語った。

豊本満里子(70)=富山

 父小島六雄、23年8月31日、100歳、老衰

 幸ノ浦(現江田島市)で特攻訓練をしていた父は、原爆投下後に救助のため広島市に入った。多くを語らなかったが、瀕死(ひんし)の人に水をせがまれ、葛藤しながら水筒の水を含ませたと聞いた。父の思いを継ぎ、亡くなった方に祈りをささげる。

石井由美(59)=石川

 義母ツヤコ、23年6月28日、98歳、老衰

 義母は尾道から入市被爆した。仕事で県庁に出向いた義父が帰宅しないため心配して捜しに行ったという。体を弱くした義父の代わりに仕事を掛け持ちし、3児を育てた。私の父と祖父も被爆者。両家の家族に思いをはせながら参列する。

佐々治一夫(70)=福井

 父善二郎、23年5月7日、95歳、老衰

 17歳だった父は海田市町(現広島県海田町)の軍施設におり、救援で広島市へ入った。遺体や負傷者をトラックに乗せたという。脳梗塞で寝たきりになる前、広島にもう一度行きたがっていた。海田市も訪ね、父の足取りをたどりたい。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=都道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。

都道府県遺族代表全32人の思いを中国新聞デジタルで紹介しています

(2024年8月3日朝刊掲載)

年別アーカイブ