『生きて』 脚本家 池端俊策さん(1946年~) <4> 上京
24年8月3日
深作監督に付いて歩く
≪明治大政治経済学部へ進学する≫
高校の先輩に日芸(日本大芸術学部)を出て、テレビコマーシャルの制作会社に入る人がいた。大学について相談したら、芸術系よりも一般の学部を勧められた。幅広い知識を学び、考えた方が役立つってアドバイスだった。
政治を選んだが正解だった。ゼミは近代の政治思想史。単に政治史の流れを学ぶのではなくて、思想家たちの個々の内面をのぞくという作業をしていく。どういう生い立ちで、何が動機で、どういった活動をするのか。とても勉強になったし、脚本家として大きく役立った。
≪在学中から、シナリオ研究所に通う。広島市佐伯区出身の映画監督、新藤兼人さんたちが講師にいた≫
入学式に行ったら生徒が200人ぐらい並んでいた。新藤さんが僕らに向かって、こんなふうに言うんだよ。「脚本について勉強している人は、日本中でこの100倍はいる。プロになれるのは1人か2人という狭き門だ」。えらいところへ来たなあって思ったよ。
1クラス20人。遅れて行ったもんだから空いているクラスは一つだけだった。講師は、深作欣二さんと馬場当(まさる)さん。深作さんは、後に映画「仁義なき戦い」を撮るけど、まだ駆け出しの監督だった。授業は例えば、「穴」というお題に対して、800字のストーリーを書いて、先生が講評したり、生徒同士で議論したりするものがあった。
授業以外でも深作さんに付いて歩いた。何かチャンスが転がっているかもと思ってね。オリジナルのストーリーを書くよう口酸っぱく言われた。でもまだ20歳そこそこの若者、まったく書けなかった。それなのに深作さんの作品に意見したもんだから「物書きもしないくせに、人の作品を批評するなんて、とんでもないやつだ。もう来るな」って怒られて放り出された。しょんぼりしちゃった。
(2024年8月3日朝刊掲載)