平和運動 死ぬまで続ける 東広島の御堂さん 広島大で被爆証言
24年8月6日
原爆の日を前に被爆証言を聞く催しが4日、東広島市鏡山の広島大東広島キャンパスであった。被爆者の御堂義之さん(88)=八本松町吉川=が、家族を相次いで亡くし苦難の道を歩んだ体験を語り「核兵器が与える影響はいかに悲惨か。覚えておいてほしい」と語りかけた。(石井雄一)
9歳だった御堂さんはあの日、爆心地から1・5キロの広島市千田町(現中区)の自宅にいた。広島赤十字病院の裏にあった家で兄と母の3人暮らし。飛行機の音がして家の前に出た直後、閃光(せんこう)と熱風に包まれがれきの下敷きになった。病院の壁に遮られ、やけどは負わずに済んだという。
全身に大やけどを負った兄は「水をくれ」と叫びながら1週間後に息を引き取った。外出先で被爆した母も10月に亡くなった。幼い頃に父を亡くし、他のきょうだいにはあまり頼ることができなかった。
「食べ物を探す毎日。畑の作物を取るなど、人に言えないこともした」。母親の夢を見ることも度々あったと振り返る。「夢の中で母は『死んじゃ駄目だ。この苦境を皆さんに知らせなさい』と言ってくれた」
周囲の助けもあり、広島大に進学。その後は神戸大教員として働いた。定年を機に妻の古里の東広島市に移った。「被爆者を二度とつくらないよう、死ぬまで平和運動を続ける」と語った。
市原爆被爆資料保存推進協議会が企画し、約20人が聴講した。御堂さんは「戦争はいきなり始まるわけじゃない。静かに進んで物がだんだんなくなり、激しくなって初めて気付く。そのことを決して忘れないで」と力を込めた。
(2024年8月6日朝刊掲載)
9歳だった御堂さんはあの日、爆心地から1・5キロの広島市千田町(現中区)の自宅にいた。広島赤十字病院の裏にあった家で兄と母の3人暮らし。飛行機の音がして家の前に出た直後、閃光(せんこう)と熱風に包まれがれきの下敷きになった。病院の壁に遮られ、やけどは負わずに済んだという。
全身に大やけどを負った兄は「水をくれ」と叫びながら1週間後に息を引き取った。外出先で被爆した母も10月に亡くなった。幼い頃に父を亡くし、他のきょうだいにはあまり頼ることができなかった。
「食べ物を探す毎日。畑の作物を取るなど、人に言えないこともした」。母親の夢を見ることも度々あったと振り返る。「夢の中で母は『死んじゃ駄目だ。この苦境を皆さんに知らせなさい』と言ってくれた」
周囲の助けもあり、広島大に進学。その後は神戸大教員として働いた。定年を機に妻の古里の東広島市に移った。「被爆者を二度とつくらないよう、死ぬまで平和運動を続ける」と語った。
市原爆被爆資料保存推進協議会が企画し、約20人が聴講した。御堂さんは「戦争はいきなり始まるわけじゃない。静かに進んで物がだんだんなくなり、激しくなって初めて気付く。そのことを決して忘れないで」と力を込めた。
(2024年8月6日朝刊掲載)