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戦地の少女「79年前の私」 廿日市の被爆者岡田さん、胸の内初めて手記に

原爆で父失った痛み 重ねる

 廿日市市の岡田好子さん(81)は、2歳の時に原爆で父を失った。遺骨さえ見つからず、一緒に過ごした幼き日の記憶もない。ウクライナや中東の廃虚でたたずむ少女をあの日の自分に重ね、抱き続けてきた胸の痛みを初めて手記で明かした。「まさに79年前の私」―。(下高充生)

 現在の平和記念公園(広島市中区)の西にあった西新町で暮らしていたが、1945年8月6日は母や兄と平良村(現廿日市市)の母の実家にいた。午前8時15分。柱時計の部品が壊れ、針が止まるほどの爆風が吹いた。けがはなかったが、放射性物質を含む「黒い雨」を浴びた。

 陸軍にいた父の土屋利三さん=当時(34)=は基町(現中区)で被爆し、そのまま行方知れずになった。西新町に一緒に住んでいた父方の祖父母や叔父たちも亡くなった。

 父と最後に会ったのは原爆投下の1週間ほど前。任務で廿日市市を訪れた際に母の実家に立ち寄った。「最後に抱っこしてくれたと聞いた。手の感触も頰の匂いもまったく思い出せない」。終戦後、広島市内に行くたび、道端で戦地から引き揚げた男性たちの顔をのぞいたという。「もしかしたら父がいるのではと思ったんでしょうね」

 父亡き後は、祖父と母が土産物卸業で生計を立て、祖母が世話をしてくれた。感謝は尽きないが「父がいてくれたら、戦争がなかったら」と思わずにはいられなかった。両親と暮らす同級生がうらやましかった。

 昨年末、黒い雨被害を救済する新しい被爆者認定基準に基づき、被爆者健康手帳を取得。知人に声をかけられ、市民団体が今夏に発行した体験記集に初の手記を寄せた。

 「テレビで戦争の映像を目の当たりにするたびに胸が締め付けられ、幼かった頃の記憶がよみがえってくる。ニュースの中の『あの少女』はまさに79年前の私なのだ」。自らと同じ経験をする子どもが今も世界に絶えない現実に、やるせない気持ちになる。手記の最後は趣味の川柳で締めくくった。「遺骨なき墓に手向ける花悲し」

(2024年8月6日朝刊掲載)

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