社説 ヒロシマ79年 核抑止論 乗り越える行動を
24年8月6日
米国が広島に原爆を投下して、きょうで79年になる。同じ苦しみをほかの誰にも味わわせたくない―と被爆者は核兵器廃絶に向けた運動の先頭に立ってきた。ところが核を巡る緊張はいま、老いを深める被爆者の願いに反して、冷戦後で最も高まっている。
「広島と長崎の街が焼き尽くされてから80年近くがたった今もなお、核兵器は、世界の平和と安全に対する明白かつ現存する危険としてあり続けている」。国連のグテレス事務総長は3月の安全保障理事会でこう嘆いた。そして「終末時計は、誰にも聞こえるほど大きな音を立てて進んでいる」とも。
人類が自滅にどれほど近づいているかを象徴する終末時計は、米科学誌が毎年発表する。今年も昨年と同じく過去最短の「残り90秒」にセットされたが、事態はより悪化した。背景にはウクライナとパレスチナ自治区ガザで続く二つの戦禍がある。核保有国のロシアとイスラエルが核を持たぬ相手に対し、核の脅しを伴って攻撃する。その現実から目を背けてはならない。
核のボタンに手
衝撃のニュースを複数の米メディアが報じたのは、安保理の直前だった。ロシアがウクライナで核兵器を使用する可能性について、米中央情報局(CIA)が「50%以上」と分析し、バイデン大統領に報告していたという。ウクライナ侵攻1年目の2022年10月ごろのことである。
ウクライナ軍が南部の要衝を奪還し、ロシア支配下にあるクリミア半島に迫ろうとしていた時期だ。ロシア軍内で核使用に関するやりとりが頻繁に交わされたのを米側が傍受していた。
1980年代、米国と当時のソ連の首脳は「核戦争に勝者はなく、戦ってはならない」と宣言した。この原則の下に核抑止論を唱える国々にとって「使えない」はずの核のボタンに、プーチン氏が手をかけようとしていたとすれば、背筋が凍る。
軍縮から軍拡へ
イスラエルはガザへ苛烈な攻撃を続ける一方、核開発を進めるイランと報復合戦を繰り広げる。中国は核弾頭の増産を急ぐ。北朝鮮はロシアと関係を強化しミサイル開発に余念がない。核抑止論の破綻と相互不信が、核軍拡へ転じる要因となったのは明らかだ。
長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)の最新の推計によると、配備済みの核弾頭と、配備のために貯蔵されている核弾頭を合わせた「現役の核弾頭」は9583発。18年からの6年間で332発も増えた。核への信奉を打ち破らなければ、人類は自滅への道をたどるしかない。
日本は東アジアの緊張を受け、安全保障を米国の核戦力に頼る姿勢を一段と強める。日米両政府が合意した拡大抑止の連携強化がそうだ。「核兵器のない世界」を唱える戦争被爆国が、他国の核兵器に依存する矛盾が際立つ。
しかし、非人道兵器による脅し合いは国と国民を守る手段にはなり得ない。国際社会がそう決意した証しが核兵器禁止条約だ。日本が果たすべきは核抑止論を乗り越える行動である。先制不使用を含む核の役割低減の国際合意を積み上げる。その議論を主導することが、今こそ求められよう。日本が核の傘から出る近道ともなる。
今年の米アカデミー賞で米映画「オッペンハイマー」が作品賞、監督賞など7部門を受賞した。原爆開発者の葛藤を描いた同作を通じ、核問題への関心が高まったのは間違いない。一方で原爆被害は描かれず、きのこ雲の上からの視点であることは否めない。戦争を終結させ、今も自国を守っているという核の「神話」は米国のみならず、ロシアやイスラエルにもはびこる。
被爆者なき時代
だからこそ、被爆地はきのこ雲の下で何が起きたのかを伝え続けなければならない。同時に被爆者のいなくなる時代を見据えておきたい。被爆者健康手帳の所有者は初めて11万人を下回った。最多時から7割も減り、被爆80年の来年には10万人を割り込む可能性がある。平均年齢は85・58歳に達した。
今を生きる私たちは証言を直接聞ける最後の世代だ。原爆で人間はどうなったのか、固有の体験や思いを後世に伝えていく。市民一人一人が記憶の継承者なのだ。
その上で重要なのが記録である。国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」に「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」の国際登録を広島市と報道機関が目指している。写真と証言を重ねると、被爆の実態は立体的になって伝える力を増す。
核兵器が使われかねない焦燥感から、これまで口を閉ざしてきた被爆者が体験を語り始めた。一方で証言を続けてきた被爆者の高齢化は著しい。証言活動をサポートしたり、日本政府に核兵器禁止条約への参加を求める活動に加わったりする若者の姿が心強い。
記憶と記録のバトンをしっかりと引き継ぎ、核兵器廃絶を国際社会に絶え間なく働きかける。きょうを、その行動を改めて誓う一日にしたい。
(2024年8月6日朝刊掲載)
「広島と長崎の街が焼き尽くされてから80年近くがたった今もなお、核兵器は、世界の平和と安全に対する明白かつ現存する危険としてあり続けている」。国連のグテレス事務総長は3月の安全保障理事会でこう嘆いた。そして「終末時計は、誰にも聞こえるほど大きな音を立てて進んでいる」とも。
人類が自滅にどれほど近づいているかを象徴する終末時計は、米科学誌が毎年発表する。今年も昨年と同じく過去最短の「残り90秒」にセットされたが、事態はより悪化した。背景にはウクライナとパレスチナ自治区ガザで続く二つの戦禍がある。核保有国のロシアとイスラエルが核を持たぬ相手に対し、核の脅しを伴って攻撃する。その現実から目を背けてはならない。
核のボタンに手
衝撃のニュースを複数の米メディアが報じたのは、安保理の直前だった。ロシアがウクライナで核兵器を使用する可能性について、米中央情報局(CIA)が「50%以上」と分析し、バイデン大統領に報告していたという。ウクライナ侵攻1年目の2022年10月ごろのことである。
ウクライナ軍が南部の要衝を奪還し、ロシア支配下にあるクリミア半島に迫ろうとしていた時期だ。ロシア軍内で核使用に関するやりとりが頻繁に交わされたのを米側が傍受していた。
1980年代、米国と当時のソ連の首脳は「核戦争に勝者はなく、戦ってはならない」と宣言した。この原則の下に核抑止論を唱える国々にとって「使えない」はずの核のボタンに、プーチン氏が手をかけようとしていたとすれば、背筋が凍る。
軍縮から軍拡へ
イスラエルはガザへ苛烈な攻撃を続ける一方、核開発を進めるイランと報復合戦を繰り広げる。中国は核弾頭の増産を急ぐ。北朝鮮はロシアと関係を強化しミサイル開発に余念がない。核抑止論の破綻と相互不信が、核軍拡へ転じる要因となったのは明らかだ。
長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)の最新の推計によると、配備済みの核弾頭と、配備のために貯蔵されている核弾頭を合わせた「現役の核弾頭」は9583発。18年からの6年間で332発も増えた。核への信奉を打ち破らなければ、人類は自滅への道をたどるしかない。
日本は東アジアの緊張を受け、安全保障を米国の核戦力に頼る姿勢を一段と強める。日米両政府が合意した拡大抑止の連携強化がそうだ。「核兵器のない世界」を唱える戦争被爆国が、他国の核兵器に依存する矛盾が際立つ。
しかし、非人道兵器による脅し合いは国と国民を守る手段にはなり得ない。国際社会がそう決意した証しが核兵器禁止条約だ。日本が果たすべきは核抑止論を乗り越える行動である。先制不使用を含む核の役割低減の国際合意を積み上げる。その議論を主導することが、今こそ求められよう。日本が核の傘から出る近道ともなる。
今年の米アカデミー賞で米映画「オッペンハイマー」が作品賞、監督賞など7部門を受賞した。原爆開発者の葛藤を描いた同作を通じ、核問題への関心が高まったのは間違いない。一方で原爆被害は描かれず、きのこ雲の上からの視点であることは否めない。戦争を終結させ、今も自国を守っているという核の「神話」は米国のみならず、ロシアやイスラエルにもはびこる。
被爆者なき時代
だからこそ、被爆地はきのこ雲の下で何が起きたのかを伝え続けなければならない。同時に被爆者のいなくなる時代を見据えておきたい。被爆者健康手帳の所有者は初めて11万人を下回った。最多時から7割も減り、被爆80年の来年には10万人を割り込む可能性がある。平均年齢は85・58歳に達した。
今を生きる私たちは証言を直接聞ける最後の世代だ。原爆で人間はどうなったのか、固有の体験や思いを後世に伝えていく。市民一人一人が記憶の継承者なのだ。
その上で重要なのが記録である。国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」に「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」の国際登録を広島市と報道機関が目指している。写真と証言を重ねると、被爆の実態は立体的になって伝える力を増す。
核兵器が使われかねない焦燥感から、これまで口を閉ざしてきた被爆者が体験を語り始めた。一方で証言を続けてきた被爆者の高齢化は著しい。証言活動をサポートしたり、日本政府に核兵器禁止条約への参加を求める活動に加わったりする若者の姿が心強い。
記憶と記録のバトンをしっかりと引き継ぎ、核兵器廃絶を国際社会に絶え間なく働きかける。きょうを、その行動を改めて誓う一日にしたい。
(2024年8月6日朝刊掲載)