『潮流』 刻まれた記憶
24年8月7日
■防長本社代表補佐兼編集部長 長田浩昌
どこまで記憶をさかのぼれるだろう。私がうっすらと思い出せるのは幼稚園に通っていた頃まで。もちろん1歳当時のことなど覚えていない。
永野和代さん(80)もあの瞬間の記憶はない。広島市の幟町の自宅玄関で被爆した時、1歳6カ月だった。爆心地から約1・5キロ。崩れたはりの下から、意識を取り戻した母に助けられたと、物心ついてから聞かされた。
ただ、詳しくは尋ねなかった。むしろ原爆のことは気に留めないようにしていたという。今はそれを悔いている。山口市原爆被害者の会の会長となって4年目。自身の記憶として体験を語れない「負い目」もばねにして活動してきた。
戦後は家族と下松市に転居。結婚して山口市で娘3人を育てた。60歳で思い立ち、高齢被爆者の支援を始めた。原爆の脅威や広島、長崎の被害を学んだ。NGO(非政府組織)ピースボートの船旅に参加し、大勢の被爆者の体験を聞いた。
昨年、会として紙芝居を作った。被爆体験を語れる人が減る中、当時の惨状を子どもたちに想像してもらうための工夫だった。14歳の時に広島で被爆し、双子の弟を亡くした男性のストーリー。全身やけどの弟は「死にたくない」と言って絶命する。現代の場面に中学生同士のけんかのエピソードがある。暴力ではなく対話で争いを解決する大切さを感じてほしいとの願いを込めている。
児童や生徒には、核兵器の恐ろしさをデータを交えて伝え、聞き取った被爆体験を紹介する。紙芝居の後、どう考えるかを問いかけるという。
先日、上演に立ち会った。絵を見つめ、永野さんの語りに聞き入る子どもたち。刻まれた記憶はいつまでも残るはずだ。
(2024年8月6日朝刊掲載)
どこまで記憶をさかのぼれるだろう。私がうっすらと思い出せるのは幼稚園に通っていた頃まで。もちろん1歳当時のことなど覚えていない。
永野和代さん(80)もあの瞬間の記憶はない。広島市の幟町の自宅玄関で被爆した時、1歳6カ月だった。爆心地から約1・5キロ。崩れたはりの下から、意識を取り戻した母に助けられたと、物心ついてから聞かされた。
ただ、詳しくは尋ねなかった。むしろ原爆のことは気に留めないようにしていたという。今はそれを悔いている。山口市原爆被害者の会の会長となって4年目。自身の記憶として体験を語れない「負い目」もばねにして活動してきた。
戦後は家族と下松市に転居。結婚して山口市で娘3人を育てた。60歳で思い立ち、高齢被爆者の支援を始めた。原爆の脅威や広島、長崎の被害を学んだ。NGO(非政府組織)ピースボートの船旅に参加し、大勢の被爆者の体験を聞いた。
昨年、会として紙芝居を作った。被爆体験を語れる人が減る中、当時の惨状を子どもたちに想像してもらうための工夫だった。14歳の時に広島で被爆し、双子の弟を亡くした男性のストーリー。全身やけどの弟は「死にたくない」と言って絶命する。現代の場面に中学生同士のけんかのエピソードがある。暴力ではなく対話で争いを解決する大切さを感じてほしいとの願いを込めている。
児童や生徒には、核兵器の恐ろしさをデータを交えて伝え、聞き取った被爆体験を紹介する。紙芝居の後、どう考えるかを問いかけるという。
先日、上演に立ち会った。絵を見つめ、永野さんの語りに聞き入る子どもたち。刻まれた記憶はいつまでも残るはずだ。
(2024年8月6日朝刊掲載)