小澤征爾とヒロシマ <上> 核への危機感 タクトに
24年8月6日
海外の名だたるオーケストラで活躍し、今年2月6日に88歳で亡くなった指揮者の小澤征爾さんは生前、国内外で戦争犠牲者を追悼する音楽を奏でた。情熱の背景には何があったのか―。「世界のオザワ」がヒロシマで刻んだ足跡をたどる。(桑島美帆)
髪が抜け落ちた被爆者、壊滅した広島市街―。1973年12月、小澤さんは母さくらさんを伴い、広島市中区の広島平和記念館(現原爆資料館東館)を訪れた。食い入るように展示を見る姿を捉えた5枚の写真が、昨年3月、同区の広島キリスト教会内にあった「桐朋学園子供のための音楽教室広島教室」で移転作業中に見つかった。
「なによりも印象に残っているのは原爆資料館の悲惨さ。あれほどとは思わなかった」「日本中の人が見るべきだし、アメリカ人、特に政治家は一度は訪れるべきだと思った」。75年1月19日付の中国新聞に掲載されたインタビュー記事から、小澤さんが受けた衝撃の大きさが伝わってくる。
米ソ冷戦下、核拡散が続いた時代。欧米を飛び回っていた小澤さんが、「核兵器が再び使われてはならない」という危機感を募らせていたことが分かるプログラムがある。76年8月8日、世界最高峰のザルツブルク音楽祭で、ポーランドの作曲家ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧(ささ)げる哀歌」を、独ドレスデンの国立歌劇場管弦楽団を指揮して奏でたのだ。
ドレスデンもまた第2次世界大戦中に無差別爆撃で破壊され、何万人もの死者が出た。「小澤さんは純粋な人だった。原爆資料館を見学して、『この曲をやらねば』という思いに駆られたのでは」。音楽ジャーナリストの岩野裕一さん(59)=東京=は推し量る。
小澤さんは70~90年代、国内外のオケとともに10回以上、広島公演を行う。75年6月にサンフランシスコ交響楽団、78年3月にボストン交響楽団、82年11月には新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮し、市民230人とともにベートーベンの「第九」を熱演。英文で「ヒロシマは世界につながっている」という趣旨の直筆メッセージを寄せた。
被爆40年の85年8月6日には、早朝の平和記念公園を訪問。約7万人の遺骨が眠る原爆供養塔前で、母校成城学園中高の仲間たちと賛美歌や童謡を約1時間にわたって合唱した。居合わせたピアノ講師の半田文代さん(76)=中区=は「心から犠牲者に寄り添っているように感じた。ヒロシマへの強い思いが伝わってきた」と振り返る。翌年のボストン響の広島公演では、団員たちと原爆慰霊碑に献花し「世界中に反核を訴え続けたい」と誓った。
小澤さんにはもうひとつ、ヒロシマとの接点がある。父方の叔父の静さんだ。旧満州(現中国東北部)にあった満州医科大で亡命ロシア人が指導する学生オーケストラに参加し、「初めて小澤家とクラシック音楽の接点をもたらした人物」(岩野さん)。卒業後は軍医となり、45年8月6日、広島市内で被爆、負傷者の治療に当たった。
戦後、小澤さんは静さんから譲り受けたピアノを弾き、音楽の道を歩み始める。兄俊夫さん(94)=川崎市=によると、静さんは後に白血病で亡くなったという。
80年代半ば、広島市中区の旧グランドホテルで小澤さんと外国人関係者を囲む懇親会が開かれた際、通訳として同席した長沼奈緒子さん(中区)は「『私が何度も広島で演奏する根っこには、叔父の体験がある』と、涙ぐみながら英語でスピーチする小澤さんの姿が忘れられない」と話す。
広島で最後に指揮をしたのは、被爆60年の2005年10月。70歳になった小澤さんは、中区の広島グリーンアリーナで開かれた平和イベントでフォーレの「レクイエム」を指揮した。約440人から成る市民合唱団のアルトパートリーダーを務めた広島県合唱連盟理事の原田典枝さん(70)=安佐北区=の心には、あの日の感動が刻まれている。「小澤さんはとてもエネルギッシュで、不思議なオーラがあった。タクトに導かれて全員が一つになり、会場全体が平和を祈る気持ちに包まれた」
小澤征爾さんの兄で小澤昔ばなし研究所所長の俊夫さん(94)に、軍医だった父方の叔父静さんから聞いた被爆体験や、次世代に伝えたいメッセージを聞いた。
◇
叔父は当時40歳くらいだったと思う。広島市内で被爆し、終戦を迎えた。あの日は非番だったのか、宇品にいたと聞いている。それで助かった。「ピカッと光って一瞬で全部なくなった」という話を散々聞いたよ。
軍医という任務上、終戦後も広島を離れられなかった。「来る日も来る日も治療し、やけどに油を塗った」と言っていた。僕が初めて被爆体験を聞いたときは中学生。(原爆の後障害で)死が迫ってくることが子ども心に本当に怖かった。
征爾は五つ下の子どもだったから、あいつなりに叔父さんの体験を聞いていたんだろう。あいつなりにね。「怖いなあ」と思っただろうね。叔父は戦後、白血病で亡くなった。
(1970~80年代に)随分征爾から広島の話を聞いた。やっぱり、悲惨なことが起きた場所に自分が行き、その場に立ったことにショックを受けていたよ。兄弟4人仲が良かったからね。あいつが僕より先に逝くとは思わなかったよなあ。
僕らは戦争中を知っている。敗戦から80年近くたつが、恐ろしい爆撃があったのはつい最近という感じがする。僕は戦地には行っていないけれど「お国のため」に火薬を造った。何の疑問も感じていなかったことが怖い。日本は大変な国だったんだ。今の人たちにも、悲惨な歴史をちゃんと知ってもらいたい。
(2024年8月6日朝刊掲載)
叔父の被爆体験も影響
髪が抜け落ちた被爆者、壊滅した広島市街―。1973年12月、小澤さんは母さくらさんを伴い、広島市中区の広島平和記念館(現原爆資料館東館)を訪れた。食い入るように展示を見る姿を捉えた5枚の写真が、昨年3月、同区の広島キリスト教会内にあった「桐朋学園子供のための音楽教室広島教室」で移転作業中に見つかった。
「なによりも印象に残っているのは原爆資料館の悲惨さ。あれほどとは思わなかった」「日本中の人が見るべきだし、アメリカ人、特に政治家は一度は訪れるべきだと思った」。75年1月19日付の中国新聞に掲載されたインタビュー記事から、小澤さんが受けた衝撃の大きさが伝わってくる。
米ソ冷戦下、核拡散が続いた時代。欧米を飛び回っていた小澤さんが、「核兵器が再び使われてはならない」という危機感を募らせていたことが分かるプログラムがある。76年8月8日、世界最高峰のザルツブルク音楽祭で、ポーランドの作曲家ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧(ささ)げる哀歌」を、独ドレスデンの国立歌劇場管弦楽団を指揮して奏でたのだ。
ドレスデンもまた第2次世界大戦中に無差別爆撃で破壊され、何万人もの死者が出た。「小澤さんは純粋な人だった。原爆資料館を見学して、『この曲をやらねば』という思いに駆られたのでは」。音楽ジャーナリストの岩野裕一さん(59)=東京=は推し量る。
小澤さんは70~90年代、国内外のオケとともに10回以上、広島公演を行う。75年6月にサンフランシスコ交響楽団、78年3月にボストン交響楽団、82年11月には新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮し、市民230人とともにベートーベンの「第九」を熱演。英文で「ヒロシマは世界につながっている」という趣旨の直筆メッセージを寄せた。
被爆40年の85年8月6日には、早朝の平和記念公園を訪問。約7万人の遺骨が眠る原爆供養塔前で、母校成城学園中高の仲間たちと賛美歌や童謡を約1時間にわたって合唱した。居合わせたピアノ講師の半田文代さん(76)=中区=は「心から犠牲者に寄り添っているように感じた。ヒロシマへの強い思いが伝わってきた」と振り返る。翌年のボストン響の広島公演では、団員たちと原爆慰霊碑に献花し「世界中に反核を訴え続けたい」と誓った。
小澤さんにはもうひとつ、ヒロシマとの接点がある。父方の叔父の静さんだ。旧満州(現中国東北部)にあった満州医科大で亡命ロシア人が指導する学生オーケストラに参加し、「初めて小澤家とクラシック音楽の接点をもたらした人物」(岩野さん)。卒業後は軍医となり、45年8月6日、広島市内で被爆、負傷者の治療に当たった。
戦後、小澤さんは静さんから譲り受けたピアノを弾き、音楽の道を歩み始める。兄俊夫さん(94)=川崎市=によると、静さんは後に白血病で亡くなったという。
80年代半ば、広島市中区の旧グランドホテルで小澤さんと外国人関係者を囲む懇親会が開かれた際、通訳として同席した長沼奈緒子さん(中区)は「『私が何度も広島で演奏する根っこには、叔父の体験がある』と、涙ぐみながら英語でスピーチする小澤さんの姿が忘れられない」と話す。
広島で最後に指揮をしたのは、被爆60年の2005年10月。70歳になった小澤さんは、中区の広島グリーンアリーナで開かれた平和イベントでフォーレの「レクイエム」を指揮した。約440人から成る市民合唱団のアルトパートリーダーを務めた広島県合唱連盟理事の原田典枝さん(70)=安佐北区=の心には、あの日の感動が刻まれている。「小澤さんはとてもエネルギッシュで、不思議なオーラがあった。タクトに導かれて全員が一つになり、会場全体が平和を祈る気持ちに包まれた」
兄の俊夫さんに聞く 「怖い」と思っただろう
小澤征爾さんの兄で小澤昔ばなし研究所所長の俊夫さん(94)に、軍医だった父方の叔父静さんから聞いた被爆体験や、次世代に伝えたいメッセージを聞いた。
◇
叔父は当時40歳くらいだったと思う。広島市内で被爆し、終戦を迎えた。あの日は非番だったのか、宇品にいたと聞いている。それで助かった。「ピカッと光って一瞬で全部なくなった」という話を散々聞いたよ。
軍医という任務上、終戦後も広島を離れられなかった。「来る日も来る日も治療し、やけどに油を塗った」と言っていた。僕が初めて被爆体験を聞いたときは中学生。(原爆の後障害で)死が迫ってくることが子ども心に本当に怖かった。
征爾は五つ下の子どもだったから、あいつなりに叔父さんの体験を聞いていたんだろう。あいつなりにね。「怖いなあ」と思っただろうね。叔父は戦後、白血病で亡くなった。
(1970~80年代に)随分征爾から広島の話を聞いた。やっぱり、悲惨なことが起きた場所に自分が行き、その場に立ったことにショックを受けていたよ。兄弟4人仲が良かったからね。あいつが僕より先に逝くとは思わなかったよなあ。
僕らは戦争中を知っている。敗戦から80年近くたつが、恐ろしい爆撃があったのはつい最近という感じがする。僕は戦地には行っていないけれど「お国のため」に火薬を造った。何の疑問も感じていなかったことが怖い。日本は大変な国だったんだ。今の人たちにも、悲惨な歴史をちゃんと知ってもらいたい。
(2024年8月6日朝刊掲載)