×

ニュース

各地で慰霊祭 父に甘えてみたかった/被爆の影響は今なお 家族の日常 一瞬で奪った/核兵器 手放す勇気を

  ◆原爆死没者慰霊行事(平和記念公園)
 原爆供養塔前に早朝、広島戦災供養会の役員たち約80人が集った。公園への入場口が開設された午前6時半からは一般の人も参列。西区の金本誠次さん(78)の父誠夫(のぶお)さんは工兵の作業で出かけて被爆し、行方不明のままだ。「幼い頃はどこかで生きているのではと思っていた。父に甘えてみたかった」とつぶやいた。

  ◆広島二中原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 建物疎開中に亡くなった広島二中(現観音高)の生徒たち約350人をしのび、遺族や高校生たち約120人が本川沿いの慰霊碑前で黙とうした。江田島市の登地靖徳さん(83)は当時1年生の兄博さんを亡くし、遺骨は見つかっていない。「生きていてほしかったと、今でも思う」と碑を見つめた。

  ◆県職員原爆犠牲者追悼(中区加古町)
 県職員や遺族たち約200人が県庁跡そばの慰霊碑前に集まり、犠牲者1142人をしのんだ。安佐南区の川本眞澄さん(82)の父瀬川舜一さんは通勤中に被爆。翌日、舜一さんの弟が市内を捜索したが見つけることはできなかった。川本さんは「身体が動く限りはここに来て、父や犠牲者を弔いたい」と話していた。

  ◆電気通信関係原爆死没者慰霊式(中区基町)
 遺族やNTT西日本の社員たち約90人が黙とう。中区の水野靖子さん(87)は毎年欠かさず、兄の石田一夫さんに祈りをささげる。「遺体は見つからず、戻ってきたのは名前が書かれた紙1枚だった」と振り返る。「大切な家族を奪う戦争はあってはならない。足が動く限り弔いに来る」

  ◆広島郵便局原爆殉職者慰霊祭(南区比治山町)
 遺族や日本郵政グループの社員計約50人が慰霊碑のある多聞院に集まり、死没者288人に黙とうした。西区の理容業上野伸一さん(54)の伯母正枝さん=当時(16)=は体調不良を押して出勤し、犠牲になった。「真面目な人だったと聞く。亡き祖父母や父の悲しみを受け継いでいく」

  ◆日本損害保険協会中国支部「友愛の碑」慰霊祭(中区中島町)
 損害保険会社の社員約100人が平和大通り南側の碑前で献花し、犠牲者89人を悼んだ。昨年8月下旬、碑建立のゆえんを刻んだ銘板を設置。同支部の藤井竜太委員長(56)は「遺族の意向を受けて実現した。今日参加できなかった方々の分まで心を込めて世界の平和を祈願した」と話した。

  ◆湯来原爆死没者慰霊式・湯来中学校区「平和の集い」(佐伯区湯来町)
 湯来原爆被爆者の会と湯来中、湯来東小が市湯来福祉会館で開き、約150人が参列。この1年に亡くなった同会の15人を含む犠牲者に黙とうをささげ、献花した。同小6年内藤妃菜さん(12)が「原爆の悲劇を一生忘れられないよう、記憶のバトンを受け継ぐ」と誓った。

  ◆広島赤十字・原爆病院原爆殉職職員ならびに戦没職員慰霊式(中区千田町)
 職員たち約100人が病院近くの慰霊碑に集まった。古川善也院長(69)は「被爆の影響は今なお続き、被爆者はさまざまな障害に苦しめられている」と説明。高齢化が進む中、「地域の中核医療機関として被爆者の健康と福祉を支えることに注力する」と話していた。

  ◆広島大付属中・高校原爆死没者・戦没者慰霊追悼の集い(南区翠)
 前身の広島高等師範学校付属中の慰霊碑に、生徒たち約50人が花や折り鶴をささげた。石田弓校長が「夢や希望を持った生徒たちが悲惨な形で人生を終えた無念さを忘れてはならない」とあいさつ。高校3年嘉藤友飛さん(17)は「戦争で世界情勢が不安定だが、保有国は核兵器使用を踏みとどまってほしい」と願った。

  ◆府中町原爆死没者慰霊式・平和祈念式(府中町本町)
 町役場そばの慰霊碑前であり、遺族や小中学生、住民たち約160人が参列。花や折り鶴をささげた。八丁堀(現中区)にいた義兄たち4人を亡くした武田セツ子さん(91)は「義母たちが捜しに行ったが広島駅から先は入れなかった。二度とこういうことが起きてはいけない」と語った。

  ◆比治山女子中学・高等学校原爆死没者追悼式(中区基町)
 中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)そばの碑前で、比治山女子中・高の生徒や教員たち約30人が営んだ。司令部に動員され「広島壊滅」の第一報を発信した先輩たち75人を悼んだ。高校2年三次梨杏さん(16)は「重い気持ちを手記に残した先輩もいる。私たちも伝えていく」と誓った。

  ◆国土交通省(旧内務省)原爆殉職者慰霊式(平和記念公園)
 原爆ドームそばの慰霊碑の前で、遺族や職員約60人が黙とうした。兵庫県川西市の辻本稔さん(89)は、東観音町(現西区)の自宅にいた姉元枝さん=当時(14)=と両親を亡くした。「姉は早死にでかわいそうだが、多くの人に手を合わせてもらえるのがせめてもの救い」と話した。

  ◆県動員学徒等犠牲者の会原爆死没者追悼式(平和記念公園)
 遺族や高校生たち約100人が原爆ドーム近くの慰霊塔の前に集まった。西区の井上公夫さん(88)の兄功さんは当時、広島市立中(現基町高)1年生。小網町(現中区)付近の建物疎開に動員され、犠牲となった。「ちゃんばらをして遊んだ思い出が今も浮かぶ」としのんだ。

  ◆川内・温井義勇隊追悼法要(平和記念公園)
 遺族たち約80人が慰霊碑前で黙とう。川内村(現安佐南区)の温井地区から動員され、爆心地付近での建物疎開中に全滅した約200人をしのんだ。母満子さん=当時(37)=を亡くした遺族会の柳原有宏会長(81)は「あの日から79年。原爆が家族の日常を一瞬で奪った事実を伝え続ける」と力を込めた。

  ◆原爆死没者追悼・平和祈念式典(大竹市)
 市総合市民会館敷地内の原爆慰霊碑「叫魂(きょうこん)」前であり、遺族たち約240人が参列。この1年に亡くなった29人を含む2559人の死没者名簿が奉納された。玖波中3年町田莉彩さん(15)が「核兵器を手放す勇気を持つことが平和への第一歩」と宣言。小中高生たちが碑に折り鶴をささげ、献花した。

  ◆広島市立広島商業高原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 建物疎開中に亡くなった市立造船工業学校の生徒たちを悼み、流れをくむ市立広島商業高の生徒たち約60人が献花した。当時、工業学校1年だった森本啓稔さん(92)=中区=は「亡くなった友人に『自分だけ生き残ってすまない』と語りかけた。生きている限り、ここに来る」と語った。

  ◆嵐の中の母子像供養式(中区中島町)
 市地域女性団体連絡協議会の役員や会員約50人が、原爆資料館の南側にある像に花束や千羽鶴を手向けた。山田豊子会長(73)=安佐北区=は「子どもたちが犠牲になる姿を見るのはやるせない」と戦渦のウクライナやパレスチナに思いをはせた。「1人の母親として戦争は駄目だと声を上げなければ」と誓った。

  ◆広島市女職員生徒原爆死没者慰霊式(中区中島町)
 広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の碑前で約300人が黙とう。建物疎開中の1、2年生を含む犠牲者676人を悼んだ。手記を朗読した舟入高2年中野愛実さん(16)は、亡き曽祖母田村絹枝さんが市女3年で被爆しており「友達を失い、どんなに悲しかったか」と思いをはせた。

  ◆鈴張地区遺族会慰霊祭(安佐北区安佐町)
 鈴張小近くの慰霊碑前に遺族や同小6年生たち約40人が集まった。伊井稔会長(87)は「戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐことがわれわれの使命」と誓った。児童代表も「広島で起きたことを外国人にも伝えたい」「毎日を大切に過ごし、身近なところから平和をつくっていく」とつづった作文を読み上げた。

  ◆県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼式(中区小町)
 卒業生や後身の皆実高生徒ら約190人が参列。当時2年だった河田和子さん(92)=南区=は高須(現西区)で被爆して父や伯父を失い「どうにも無念さだけが残っている」。生徒会長の2年越智祐葵さん(16)は「広島に生まれた身として被爆者の声を同世代、次世代へ伝える」と誓った。

  ◆旧制広島市立中学校原爆死没職員生徒慰霊祭(中区西白島町)
 流れをくむ基町高の慰霊碑前で開き、遺族や生徒たち約200人が参加した。安佐北区の志磨群治さん(82)の兄聖徒さんは当時1年。建物疎開作業に出かけ、行方が分からない。志磨さんは「捜しても見つからず、母は無念そうだった。今日は兄を近くで感じていたい」と声を詰まらせた。

  ◆県立広島工業高原爆犠牲者慰霊式(南区出汐)
 遺族や同窓生、生徒たち計約150人が、建物疎開中などに亡くなった前身の県立広島工業学校の生徒たち計214人に献花した。海田町の部家隆夫さん(80)は兄達海さんの遺骨が見つかっていないという。「同じ墓に入れてあげたい」と悼む。「核兵器のような、人が人をやっつける物は造っちゃいけん」と訴えた。

  ◆広島大原爆死没者追悼式(中区東千田町)
 遺族や大学関係者、この日の平和学長会議に招かれた米国やインドの大学学長たち約50人が追悼碑に花と水をささげた。南区の主婦渡部春美さん(85)は、前身の広島文理科大の敷地内で被爆死した祖父をしのんで参列。「来られる遺族が少なく寂しい。犠牲者や戦後の被爆者の苦労を忘れないで」と願った。

  ◆原爆犠牲新聞労働者「不戦の碑」碑前祭(中区加古町)
 新聞・通信7社の犠牲者133人の名前を刻んだ碑に、遺族や労組関係者たち約60人が手を合わせた。東区の自営業桑原秀夫さん(66)は中国新聞社員だった伯母の桑原玉江さん=当時(20)=をしのんだ。「世界で戦争が続く中、報道機関は今以上に被爆者の声を発信し続けてほしい」と求めた。

(2024年8月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ