『生きて』 脚本家 池端俊策さん(1946年~) <6> 今村監督との縁
24年8月7日
名作映画に携わり自信
≪今村昌平監督が1975年に開校した横浜放送映画専門学院(現日本映画大学)の講師になった≫
今村さんには「今の学生は本を読まないから、読書の習慣をつけてやってくれ」と言われた。講師をする傍ら、監督の仕事も手伝うようになった。映画「復讐(ふくしゅう)するは我にあり」(79年)や「楢山節考」(83年)といった名作の脚本に関われたのは、大きな自信につながった。
≪姥捨山(うばすてやま)を題材にした「楢山節考」はフランス・カンヌ国際映画祭の最高賞を射止めた≫
脚本の初稿を手がけ、長野の山奥であったロケには助監督として参加した。ある日、主演の緒形拳さんから「俺の役って、母親を捨てに行くことが悲しいと思って、ずっと情けない顔をしている。それだけか」と相談を受けた。芝居がワンパターンになるのが不満だったみたい。
それを受けて、主役には父親を殺した過去があることにしてはどうかと監督に提案した。山に捨てられることにあらがったから撃ち殺したんだ。そうなると母親を捨てることに、単なる悲しさだけではない葛藤が生まれる。母親を捨てることが、残酷で悲しいことだけれど、父親を殺したことへのある種の償いになる。それがこの人物に重い陰影を与えることになると考えた。
監督も「それだ」と言って、そこから一晩で脚本を修正した。重い過去を背負った主役の表情は全く違ってくる。翌日から撮り直しで大騒ぎだった。緒形さんは「あれで俺の役がはっきりした」って。すでに大スターだったけれど、駆け出しの僕を少し認めてくれたのかな。
今村さんには随分かわいがってもらった。「意見を言わないやつは駄目だ」と言われ、今の話のような登場人物が際立つエピソードを絶えず提案し続けた。脚本というものを、どう考え、どう作っていくかを深い視点で教えてもらった気がする。
(2024年8月7日朝刊掲載)