×

ニュース

家族の悲しみ 記憶継ぐ 子2人失った曽祖父の手記と向き合う 広島の土屋さん 高校生に講演

 被爆死した学徒2人の最期をつづった父親の手記がある。戦後に平和記念公園(広島市中区)になった旧中島本町に暮らした故亀田政一さんが残した。ひ孫で会社員の土屋浩さん(53)=東区=が6日、西区の山陽高で講演し、世代を超えて家族の原爆被害と向き合った経験を語った。

 「2人の生きた証しを残そうという意志を感じた」。土屋さんは1~3年生約30人に語りかけた。手記は亀田さんが戦後に書いたとみられる。次男の昌樹さん(12)と四女の八重子さん(14)=いずれも当時=が原爆に遭い、悲惨な状態で息絶えていた様子などを万年筆で記す。

 あの日、山陽中(現山陽高)1年の昌樹さんは防火帯を造る建物疎開の作業に動員され被爆。外出して無事だった亀田さんが3日後の8月9日、市内の病院の玄関先で「横腹と両腕の皮が剝がれて赤身になったまま」亡くなっていたのを見つけたと記す。

 八重子さんは、安芸高等女学校(廃校)3年生。動員先の工場が休みで自宅にいた。翌7日朝、亀田さんが焼け跡で白骨になった遺体と対面したとつづる。

 土屋さんが手記の存在を知ったのは8年前。祖母が書き写した冊子を自宅で偶然手にした。家族と原爆の記録に初めて触れ、「読み進めていくと曽祖父の体験を自分ごととして受け止めるようになった」と振り返った。

 親戚宅に手記の原本や2人の成績表などの遺品があると分かり、手記に生前の写真を加えるなどし製本。3年前、原爆資料館(中区)に寄せた。

 寄贈をきっかけに昌樹さんの母校とつながり、この日の平和学習に招かれた。「皆さんの家族にも原爆や戦争に関する歴史があるはず。記録を残したり語り継いだりしてほしい」。後輩たちに継承の輪が広がるよう願った。(新山京子)

(2024年8月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ