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小澤征爾とヒロシマ <下> 音楽家ら思い引き継ぐ 聞かずとも感じた「意志」

 88年の生涯にわたって原爆犠牲者に心を寄せ、核への危機感をタクトに込めた小澤征爾さん。広島市出身の被爆2世の音楽家たち、「Music for Peace」(音楽で平和を)を掲げる広島交響楽団に、その思いは引き継がれる。

 「戦後14年で海外へ出て、道なき道を切り開いてくださった。僕たちの恩人であり、小澤先生がいなければ今の僕はない」。指揮者で東京芸術大教授の山下一史さん(62)=東京=は言い切る。

 小澤さんの恩師、斎藤秀雄さん(1974年に71歳で死去)が指導した「桐朋学園子供のための音楽教室広島教室」の卒業生。小学4年から斎藤さんたちにチェロを学んだ。

 山下少年にとって、小澤さんは憧れの存在だった。73年12月、広島で小澤さんが初めてタクトを振った桐朋学園オーケストラの公演。勇壮な指揮が導くシュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」に興奮した。「人種の壁が厚い海外のクラシック界で大活躍する小澤さんは、まさしくヒーローだった」と振り返る。

 桐朋学園大に進学し、小澤さんから直接指導を受ける機会に恵まれた。「小澤先生は物語を語るように指揮をする。欧米での経験を基に『指揮法の言語化』を教えてくださった」

 海外に渡り、さらに小澤さんの圧倒的な存在感を知った。85~89年、山下さんは「帝王」と称されたカラヤンが逝去するまで助手を務めた。「『オザワの弟子』だったので信頼された」

 被爆者だった母博子さんが2014年に87歳で亡くなり、被爆2世としての使命を抱くように。近年、東京混声合唱団が歌い継ぐ「原爆小景」の指揮に情熱を注ぐ。

 「叔父さんの被爆などヒロシマとの深い関わりを、小澤さんから聞いたことはなかった。けれど、強い『意志』を感じていた」。作曲家、糀場富美子さん(72)=東京=は思い返す。

 1985年12月、ニューヨークのカーネギーホールで、小澤さんが音楽監督を務め指揮をするボストン交響楽団が、糀場さんの「広島レクイエム」を米国初演した。高名な楽団が「音楽の殿堂」で開催する定期演奏会で、当時まだ無名だった日本人の作品を取り上げるのは異例だった。

 その4カ月前、巨匠バーンスタインが広島市で開催した平和コンサートで、「広島―」が世界初演された。リハーサルを見学した小澤さんは、糀場さんに声をかけた。「いい曲だね。演奏したいから、楽譜くれる?」

 「驚くばかりでしたが、すぐにボストン響から連絡があった。プログラムを急きょ変更して、冒頭に『広島―』を入れてもらった」

 「ミス・コウジバの短い優れた作品を聴くと、(被爆者の)苦悩、恐怖、そして平和なひとときが共有できる。オザワの指揮による素晴らしい演奏も大いに助けとなった」。ニューヨークの新聞には好意的な批評が載った。

 「現地では原爆をテーマにした曲への反発も予想されたはず。小澤さんの力と強い意志が米国初演を成功に導き、作品を世に広めてくれた」と糀場さん。世界各国でこの曲は演奏され、ヒロシマの思いを伝え続けている。(桑島美帆、西村文)

やました・かずふみ
 広島市東区出身。1984年に桐朋学園大卒業後、ベルリン芸術大に留学。86年、急病のカラヤンの代役でベルリンフィルを指揮し、話題に。千葉交響楽団音楽監督、大阪交響楽団常任指揮者などを務める。

こうじば・とみこ
 広島市南区出身。広島大付属高卒、東京芸術大大学院修了。父が被爆者。2006年、原爆犠牲者をテーマにした「未風化の7つの横顔」で別宮賞、芥川作曲賞を受賞。23年から東京音楽大客員教授。

広響の調べ メッセージに

 広島交響楽団のクリスティアン・アルミンク音楽監督(53)とミュージックアドバイザーの徳永二男さん(77)は、長年にわたって小澤征爾さんと親交があった。

 徳永さんにとって小澤さんは桐朋学園大の先輩。学生の頃から、小澤さんが指揮するオーケストラにバイオリン奏者として参加していた。「小澤さんは、あっという間にオーケストラを味方にしてしまう。枠からはみ出た魅力があった。『第二の小澤』は今後なかなか出ないだろう」とたたえる。

 「アジア人で初めて世界的に活躍した指揮者。巨匠なのに常に謙虚で、多くを学んだ」。アルミンク音楽監督は2003年から10年間、小澤さんが設立に携わった新日本フィルハーモニー交響楽団で音楽監督を務めた。今月末、東京で開催される追悼公演では「まな弟子」として指揮を担う。

 「ヒロシマに集い音楽を奏で、平和のメッセージを発信することが大切だ」と、師の意志を継ぐ。(桑島美帆)

(2024年8月8日朝刊掲載)

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