『生きて』 脚本家 池端俊策さん(1946年~) <7> 本格デビュー
24年8月8日
書き手として頭角現す
今村昌平監督からフランキー堺さんを紹介された。蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)を映像化したいので相談相手になってほしいということだった。すぐに親しくなり、渋谷駅前の飲み屋で会ったりしていた。映画学校の講師の給料は安く、脚本の仕事は全くなくて、生活がとても苦しかった。見かねたフランキーさんがお小遣いをくれたこともあった。
ある日、彼が東芝日曜劇場の話を持ってきてくれた。そうそうたる脚本家が書いているドラマ枠。翌週にはテレビ局のプロデューサーと会った。「面白い話はありますか」と聞かれて、ある新聞記事を基にした、あらすじを話してみた。
記事は小さな村の村議会議員選挙で、ある候補者が1票しかなかったことを伝えていた。もし2票だったら―。1票は候補者自身で、残り1票は普通は奥さんと考える。でもそうじゃない。こんな話をしたら興味を示してくれて、ドラマ化が決まった。
≪1979年、「馬逃げた」で脚本家として本格的にデビューした≫
主役はフランキーさん。妻役の加藤治子さんが、顔合わせの時に脚本を褒めてくれて、彼女の友人の向田邦子さんにもこの脚本を渡したとおっしゃっていた。向田さんに感想を聞きたいと思っていたんだけど、飛行機事故で亡くなってしまわれたのが非常に悔やまれる。
ドラマは好評で、放送後の反響はすごかった。各局から電話があり、仕事が来るようになった。何でも引き受けた。見事に失敗した作品もあるが。
≪「私を深く埋めて」「羽田浦地図」「危険な年ごろ」が評価され、85年に芸術選奨文部大臣新人賞に輝く≫
あるパーティーで急に後ろからパンって、肩をたたかれた。振り向くと緒形拳さんがいて、羽田浦地図について「池端、いい本書いたな」って。あまり褒めない人だからすごくうれしくて、ようやく脚本家でやっていけると思った瞬間だった。
(2024年8月8日朝刊掲載)