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社説・コラム

『潮流』 禎子ちゃんと母

■報道センター経済担当部長 小林正明

 「さだこちゃんとはよく遊んどったよ」。私が社会人になり、8月6日の話題に触れた時だったか、母が漏らした。まさかと思って聞くと「佐々木禎子ちゃん。近所で同じ小学校だったから」。

 「原爆の子の像」のモデルと友達とは…。初めて知ったが当然だった。母は、当時のことは「記憶が曖昧」と、あまり語ろうとしなかった。とはいえ、もう82歳。先日、意を決して尋ねた。

 母の家は今の立町(広島市中区)で青果店を営んでいた。祖父はあの日、仕入れ後に近くの茶屋で休憩中に被爆し亡くなった。牛田早稲田(東区)に家族と疎開していた母は3歳。午前8時15分は外で遊んでいた。そばの塀が倒れ、破片が頭に当たって気を失ったという。その傷痕は今も残る。

 戦後、母たち家族7人は鉄砲町(中区)に移り、店を再開した。佐々木家もその頃、八丁堀(同)に3階建てで自宅を兼ねた理髪店を開いた。幟町小に通った母は、禎子さんの兄雅弘さんと同級生で、5、6年生は同じクラス。禎子さんは1歳下だった。

 他の友達も交え、京橋通り沿いにあった母の家の前で「けんけんぱ」をしたり、隣の材木置き場でかくれんぼをしたり。佐々木家にも行って遊んだ。「禎子ちゃんはよく髪を後ろでくくっとったよ。足が速くてね。運動会とかは、ピョーンという感じで走ってた」

 母は卒業間近に引っ越し、佐々木家と中学は別々になった。「うちは禎子ちゃんが元気な姿しか知らんのよ。病気になったのも、亡くなったと聞いたのも後になってからじゃねえ」と振り返る。

 被爆80年に向かう一年が始まった。老いた母の記憶を私、そして被爆3世の息子へつなぐのは今かと思っている。

(2024年8月8日朝刊掲載)

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