[歩く 聞く 考える] 客員編集委員 佐田尾信作 ある水兵たちと被爆者手帳
24年8月8日
記録なく 手探りで戦友捜した
「本土決戦」に備えて呉市川原石地区の山中で秘密裏に訓練中、焦土の広島に急派された海軍部隊が存在した。「呉鎮守府特別陸戦隊23大隊」である。筆者の亡き父も元隊員であり、9年前に「原爆と海軍陸戦隊」と題して本欄で取り上げたが、その後も取材を続けてきた。戦後、全国各地に帰郷した彼らはいかにして互いの消息を追い求め、被爆者健康手帳を取得するに至ったのだろうか―。
23大隊は1945年6月に編成され、当初は市街地の呉海兵団に兵舎があったが、空襲を機に川原石地区に移駐。一説によると1400人が壕(ごう)を掘り天幕を張って宿営し「棒地雷」などを抱えて敵戦車に迫る訓練を重ねていた。陸戦隊とは本来、艦船に乗り組んで前線に向かうが、海軍が艦船を失った戦争末期には満足な装備もなく自爆も覚悟の水兵たちだった。
彼らは8月6日朝、西方に閃光(せんこう)を目撃。翌未明、広島救援のため主力は軍用列車に乗り、海田市駅から徒歩で広島駅北側の陸軍東練兵場に向かう。任務は同駅の復旧作業に限ると厳命されたが、遺体を収容しないわけにはいかない。9日まで従事し列車の開通を待って帰隊した。呉からは海軍病院や海兵団などの救援隊も急行し、広島市街地の北部を担当、それ以外を宇品の陸軍船舶司令部(暁部隊)が担当した。広島城内の中国軍管区司令部が壊滅する中、宇品と呉の兵隊が修羅場で奮闘したのだ。
だが、23大隊の名は旧軍の記録に見当たらない。まとまった手がかりは戦友会の川原石会が93年に出した証言集「残照の川原石」と中国放送のラジオ番組2本。証言集は戦艦大和沖縄特攻作戦の生還者でもある福山市の元隊員八杉康夫が編集し、番組は八杉を通じて23大隊を知った田島明朗が制作したが、両氏とも亡くなっている。
証言集によると、発熱や出血などが戻ってきた隊員に相次ぎ、軍医も処置したが、復員後適切な治療を受けたかどうか分からない。1400人規模の入市被爆が全く顧みられなかった時代だった。
川原石会の前身「佐藤中隊戦友会」は被爆36年の81年に発足。松江市の教員で僧侶の元隊員、浪花正芳が旅先の和歌山県で地元出身の部下を思い出し、電話帳を繰って捜し出したことに始まる。やがて迫撃砲中隊の10人の消息が判明し、大阪府箕面市に7人が集う。浪花は医師に自身の被爆直後の体調不良について相談していた。呉海軍工廠(こうしょう)に勤労動員された松江市の元女子学徒たちが帰郷の際に入市被爆して手帳を取得したことも聞いていた。これらが戦友たちの消息を追った動機とみられる。
草創期の7人には手帳がなかったものの、2人が迫撃砲中隊約180人の名簿を持っていた。これを頼りに手紙を出したところ30人から返信があり、うち5人は手帳を持つことが判明。浪花と元中隊長の佐藤庄造(東京都板橋区)が証人を得て手帳をもらい、翌年の戦友会では浪花と佐藤が20人余りに被爆を証明する書類を書いた。
以来、助け合って手帳を取得しようと申し合わせ、川原石会と名乗る。96年に初めて駐屯地跡(現在は呉市北塩屋町)を訪ね、草創期の一人で教員の小林健は「(終戦の)あの日、部隊から見た呉湾の艦船の白旗が忘れられない」と中国新聞の取材に答えている。2000年の開催が最後だった。
ことし1月、小林の長女で岐阜県多治見市の眼科医師岩瀬愛子と連絡が取れ、広島、呉両市内のゆかりの地を案内した。小林も大和沖縄特攻の生還者であり、岩瀬は父と大和ミュージアムを訪れたことはあるが、駐屯地跡は初めて。「ここですか。碑も何もないですね」とつぶやく。その後もメールでやりとりし「父の軍歴ですか。あれほどの目に遭っていながら何も書かれていない。人の命は軽かったんですね」と憤った。
小林の軍歴を見せてもらうと確かに「呉海兵団」としか記述がなく、筆者の父も「呉警備隊」のまま復員している。旧軍から引き継いだ厚生労働省の記録の上では23大隊はなかったことにされているのか。岩瀬の憤りも分かる。
一方、迫撃砲中隊とは別に、陸軍の歩兵に当たる第一中隊の240人の名簿が96年に見つかっている。岐阜県恵那市の元隊員三宅昇が病床の元上官から託され、これを基に川原石会が消息を追った。筆者は次男の均に手紙を出し、3月に同市を訪ねた。自らも被爆の証人になった昇の遺品には多数の礼状が含まれ「父が語らなかったことを遺品が語っていますね」と均。戦後は山あいで林業を営みつつ戦友を気遣った人の遺影に対面し、2人で般若心経を唱和した。
川原石会の99年の名簿にあるのは故人を含め150人余り。23大隊全員の1割に過ぎない。同会と関わりを持たずに手帳を取得した人もいるだろう。一方で被爆者援護の制度を知らぬまま亡くなった人も少なからずいると想像する。
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館には元隊員の遺影や体験記が登録されているが、小林や三宅、筆者の父を含め延べ80人にとどまる。親族が同じような被爆体験を持つと気付いたら、お調べの上、登録をお願いしたい。一通の手帳、一件の登録でも後世に残すべき記録だと信じる。(文中敬称略)
(2024年8月8日朝刊掲載)