社説 長崎式典と米欧大使 「招待」の意味 問い直そう
24年8月9日
きょう長崎市で平和祈念式典が営まれ、鈴木史朗市長の平和宣言を軸に、核兵器廃絶を世界へ訴える。核を巡る状況が悪化していく中で、広島と同じく重要な場となろう。海外の政治的思惑が、そこに影を落とすなら残念だ。
パレスチナ自治区ガザでイスラム組織ハマスと戦闘し、おびただしい民間人犠牲を生んでいるイスラエルを、長崎市は式典に招待しなかった。それを理由に、米国、英国をはじめ日本を除く先進7カ国(G7)などが駐日大使参列を見送ることになったのだ。
米国が福岡の首席領事を派遣するなど各国とも代表は出すようだ。過去にも代理が参列するケースはあるため、式典運営上の礼まで失したわけではなかろう。とはいえ長崎市の判断への不満を目に見える形で示したことになる。
この先進6カ国と欧州連合(EU)の大使らが連名で、イスラエルを除外すれば高官参加は困難とする書簡を7月19日付で市に送っていたという。ウクライナ侵攻を理由に招待しないロシア、ベラルーシとイスラエルを同列に置くことを懸念する内容だ。
米英などはガザの停戦を求めつつ、基本的にはイスラエル側に立つ。その姿勢が露骨に持ち込まれることには違和感がある。連名の書簡など行き過ぎだろう。国際情勢がどうあれ、少なくとも原爆を落とした米国は広島と長崎の式典にできる限り、高官を出席させるべきではないか。
広島は招待し、長崎は見送り―。ことしは両被爆地が難しい判断を求められた。確かに戦争当事国として除外するロシアなどとの兼ね合いをどう説明するかが問われる。
鈴木市長はイスラエルの不招待に関して「政治的な理由ではない」と述べて、不測の事態のリスクを挙げた。ただ足元の被爆者や市民に、国際社会の非難を浴びつつ戦闘を続ける同国への批判が強いことも背景かもしれない。一方で広島市は市内外の異論を押して招待に踏み切った。
一つ言えるのは式典の主催は広島市、長崎市であり、あくまで自主的な判断に基づくべきだということだ。ウクライナ侵攻後の2022年、ロシアなどを招くのを見送った際は外務省の招待反対が影響したとされる。本来は横やりを入れられる話ではない。
一連の問題を踏まえ、考えることは多い。そもそも8月6日と9日には何のために式典を営み、誰を招くのか。
原爆犠牲者を悼む場であることは疑いない。各国の代表に核廃絶・核軍縮と平和構築を発信する意味もまた強まっている。核保有国と同盟国が持ち出す「核抑止論」からの脱却を式典で正面から唱え始めたのが象徴的だろう。
その点でも国際政治と決して無縁ではない。ヒロシマ・ナガサキの式典こそ、最前線との見方もできよう。
目の前の状況にかかわらず全ての国・地域を招くべきだという意見がある。被爆80年に向け、広島市は海外代表の招待基準を見直す方針を示した。被爆地と世界がどう思いを共有していくか。原点に立ち返って議論を深めたい。
(2024年8月9日朝刊掲載)
パレスチナ自治区ガザでイスラム組織ハマスと戦闘し、おびただしい民間人犠牲を生んでいるイスラエルを、長崎市は式典に招待しなかった。それを理由に、米国、英国をはじめ日本を除く先進7カ国(G7)などが駐日大使参列を見送ることになったのだ。
米国が福岡の首席領事を派遣するなど各国とも代表は出すようだ。過去にも代理が参列するケースはあるため、式典運営上の礼まで失したわけではなかろう。とはいえ長崎市の判断への不満を目に見える形で示したことになる。
この先進6カ国と欧州連合(EU)の大使らが連名で、イスラエルを除外すれば高官参加は困難とする書簡を7月19日付で市に送っていたという。ウクライナ侵攻を理由に招待しないロシア、ベラルーシとイスラエルを同列に置くことを懸念する内容だ。
米英などはガザの停戦を求めつつ、基本的にはイスラエル側に立つ。その姿勢が露骨に持ち込まれることには違和感がある。連名の書簡など行き過ぎだろう。国際情勢がどうあれ、少なくとも原爆を落とした米国は広島と長崎の式典にできる限り、高官を出席させるべきではないか。
広島は招待し、長崎は見送り―。ことしは両被爆地が難しい判断を求められた。確かに戦争当事国として除外するロシアなどとの兼ね合いをどう説明するかが問われる。
鈴木市長はイスラエルの不招待に関して「政治的な理由ではない」と述べて、不測の事態のリスクを挙げた。ただ足元の被爆者や市民に、国際社会の非難を浴びつつ戦闘を続ける同国への批判が強いことも背景かもしれない。一方で広島市は市内外の異論を押して招待に踏み切った。
一つ言えるのは式典の主催は広島市、長崎市であり、あくまで自主的な判断に基づくべきだということだ。ウクライナ侵攻後の2022年、ロシアなどを招くのを見送った際は外務省の招待反対が影響したとされる。本来は横やりを入れられる話ではない。
一連の問題を踏まえ、考えることは多い。そもそも8月6日と9日には何のために式典を営み、誰を招くのか。
原爆犠牲者を悼む場であることは疑いない。各国の代表に核廃絶・核軍縮と平和構築を発信する意味もまた強まっている。核保有国と同盟国が持ち出す「核抑止論」からの脱却を式典で正面から唱え始めたのが象徴的だろう。
その点でも国際政治と決して無縁ではない。ヒロシマ・ナガサキの式典こそ、最前線との見方もできよう。
目の前の状況にかかわらず全ての国・地域を招くべきだという意見がある。被爆80年に向け、広島市は海外代表の招待基準を見直す方針を示した。被爆地と世界がどう思いを共有していくか。原点に立ち返って議論を深めたい。
(2024年8月9日朝刊掲載)