[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月9日 大けが、そして放射線
24年8月9日
「手が痛い、手が痛い」
被爆3日後の1945年8月9日、焦土の広島市で1人の少女が写真に納まった。頰や、右腕の包帯が痛々しい。この日に市内に入った毎日新聞大阪本社写真部の国平幸男さん(2009年に92歳で死去)により撮られた。
少女は、当時10歳で幟町国民学校(現中区の幟町小)の5年だった藤井幸子さん。爆心地から約1・2キロの弥生町(現中区)の自宅で被爆した。爆風で飛び散ったガラス片で顔や首筋をけがし、熱線にさらされた右手に重いやけどを負った。
長男哲伸さん(64)=東京=は写真に触発され、亡き母の被爆後の足取りを調べている。「眉間のしわはやけどの痛さを我慢する表情のはず。逃げるときも『手が痛い、手が痛い』と言っていたそうです」
24年後に乳がん
包帯を巻かれた右手はやけどで指と指がくっつき、一本一本を切り離す手術を余儀なくされた。高校卒業までは大きな病気もせず広島市内で家庭を築いたが、被爆24年後に乳がんを発症した。
当時、哲伸さんはまだ小学3年生。手術で調子を取り戻した母だったが「中学に入ってから『体が痛い』と。悪いときは昼間も寝込んで」。入退院を繰り返し、哲伸さんが高校2年だった77年に亡くなった。42歳。がんが全身に回り、最後は骨髄がんと診断された。
戦後の被爆者の疫学調査で、原爆放射線はがんの発症リスクを高めたと分かっている。そうとは知らず、すでに大量の放射線にさらされていた被爆直後の市民の写真記録は、見えざる核の非人道性を刻んでいる。
救護体制も崩壊
長崎にも米軍が原爆を落とした8月9日は、写真と文書の双方で広島市内の救護体制の危機的な状況も記録されている。
陸軍船舶司令部写真班員、川原四儀さん(72年に49歳で死去)は、8日に空路で広島入りした大本営調査団に同行して市内を回った。トルーマン米大統領は7日未明(日本時間)に「原爆投下」声明を出しており、原爆かどうかを確認するためだった。
東京の陸軍軍医学校の教官たちでつくる陸軍省広島災害調査班も調査団と共に広島入りし、陸軍病院が視察先になった。基町(現中区)の広島第二陸軍病院は爆心地から約1・1キロで全壊全焼。川原さんはそばの本川堤防にテントで設けられた臨時救護所に負傷者があふれる惨状を収めた。
広島災害調査班が9日付でまとめた「速報第四号」は市内の医療体制の崩壊を指摘する。
「広島市内病院医院等ハ殆(ほと)ンド全焼」「県庁、市役所衛生(厚生)課長以下職員ノ大部分死傷 機能著シク低下ス」
市民の命を救う病院や官公庁もろとも都市を一発で壊滅させる核攻撃の実態が記録されている。(宮野史康、編集委員・水川恭輔)
(2024年8月9日朝刊掲載)
顔一面に負傷した少女