[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月16日 生徒生還ならず「絶望」
24年8月16日
1945年8月16日。広島市立第一高等女学校(市女、現中区の舟入高)は、何とか命をつないでいた1人の1年生の死の知らせを突き付けられた。教員たちが被爆直後の状況を当時つづった「昭和廿年八月六日罹災(りさい)関係 経過日誌」の16日の箇所に記す。「一ノ五組森本幸恵遂ニ死亡、現場デ聴取、之ニテ絶望トナル」
市女1、2年生は6日、今の平和記念公園南側の建物疎開作業に動員されていた。爆心地から約500メートル。日誌は被爆直後をこう伝える。「多クハ現場ニ失明状態ニテ昏倒(こんとう)(略)似島ニ搬送サレシ者モ少数算セラル但(ただ)シ生存者ハ三、四名ニ止マリ…」。12日には、似島(現南区)を調べた末に「森本幸恵ノ氏名ノミ発見」との続報があった。
母の故トキ子さんの手記によると、被爆の瞬間、森本さんは目を押さえ、同じく視力のあった友達2人と逃げた。しかし1人は途中で倒れる。「離れまいね」と手をつないでいたもう1人も、元安川に下りると今にも呼吸が絶えそうだった。森本さんも血を吐き、気を失った。気付いたときは、軍の船で似島へ運ばれていた。
13歳の誕生日だった9日、母と似島で再会。その後に八幡国民学校(現佐伯区の八幡小)の救護所に移った後、13日に息を引き取った。亡くなる前、先生、友達、家族たちに向けて「長らくお世話になりました。お先にゆきます。さようなら」と繰り返した。
建物疎開作業に動員されていた市女1、2年生541人と教職員7人は誰も助からなかった。ほかの学年を含め市女の生徒・教職員計676人が被爆死した。(編集委員・水川恭輔)
(2024年8月16日朝刊掲載)
市女1、2年生は6日、今の平和記念公園南側の建物疎開作業に動員されていた。爆心地から約500メートル。日誌は被爆直後をこう伝える。「多クハ現場ニ失明状態ニテ昏倒(こんとう)(略)似島ニ搬送サレシ者モ少数算セラル但(ただ)シ生存者ハ三、四名ニ止マリ…」。12日には、似島(現南区)を調べた末に「森本幸恵ノ氏名ノミ発見」との続報があった。
母の故トキ子さんの手記によると、被爆の瞬間、森本さんは目を押さえ、同じく視力のあった友達2人と逃げた。しかし1人は途中で倒れる。「離れまいね」と手をつないでいたもう1人も、元安川に下りると今にも呼吸が絶えそうだった。森本さんも血を吐き、気を失った。気付いたときは、軍の船で似島へ運ばれていた。
13歳の誕生日だった9日、母と似島で再会。その後に八幡国民学校(現佐伯区の八幡小)の救護所に移った後、13日に息を引き取った。亡くなる前、先生、友達、家族たちに向けて「長らくお世話になりました。お先にゆきます。さようなら」と繰り返した。
建物疎開作業に動員されていた市女1、2年生541人と教職員7人は誰も助からなかった。ほかの学年を含め市女の生徒・教職員計676人が被爆死した。(編集委員・水川恭輔)
(2024年8月16日朝刊掲載)