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社説・コラム

『潮流』 パールハーバーと広島

■特別論説委員 宮崎智三

 半世紀前、現職の米大統領が初めて日本を訪れた。それに先立ち、ある計画が日本の経済人や学者の一部で進んでいた。

 核時代の平和をテーマに、大統領に広島で世界に向けた演説をしてもらう。翌年訪米予定の天皇には、ハワイの真珠湾に寄って戦争記念碑に花輪をささげてもらう―。

 日の目を見なかったこの計画について、携わった一人が35年前に出した本で触れていた。広島と真珠湾の相互訪問が、半世紀以上も前から構想されていたとは…。不明を恥じるほかない。

 開戦通告の遅れは批判されて当然だとはいえ、真珠湾攻撃は軍事作戦。女性や子どもを含む多くの非戦闘員が住む都市に壊滅的打撃を与えた原爆と同列視はできない。

 自著で計画に触れていたのは故・武山泰雄氏。第2次大戦中、軍人として広島で被爆した。戦後は日本経済新聞に入り、初代ニューヨーク特派員や論説委員長などを経て常務になった人だ。

 ニクソン米大統領の中国訪問を前年に予見した報道で、ボーン・上田記念国際記者賞を1971年度に受賞している。

 妹の夫は、真珠湾攻撃で九死に一生を得た元米国兵。真珠湾と広島との結び付きが、さらに強く武山氏の心に刻まれていたに違いない。

 「もし『真珠湾』がなければ『広島』もなかっただろう!」。武山氏の被爆体験が89年8月6日の米紙に載った際、届いた多くの反響の中にそんな意見があったという。米国人の率直な感想だと武山氏は分析していた。

 原爆は、真珠湾の不意打ちの帰結だという米国人の考えは、被爆地とは相いれない。長崎への投下は不要だったと認めた証しのように思えることも腹立たしい。

(2024年8月10日朝刊掲載)

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