[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月10日 赤十字病院に負傷者殺到 「声にならないうめき声」
24年8月10日
1945年8月10日、当時31歳の宮武甫(はじめ)さん(85年に71歳で死去)はカメラを携えて広島赤十字病院(現広島市中区の広島赤十字・原爆病院)に向かった。前日に軍の情報収集などに同行して広島入りしていた朝日新聞大阪本社の写真部員。院内の光景に衝撃を受けた。
「ひん死の人たちがいっぱいコンクリートの床に収容され、声にならないうめき声に、私はカメラを持って立ちすくんだ」(82年刊「原子雲」収録の宮武さんの手記)
爆心地から約1・5キロ。多くの病院が焼き尽くされる中、倒壊も焼失も免れた広島赤十字病院の鉄筋の病棟に負傷者が殺到していた。熱線で顔を焼かれた女性、頭に大けがをした幼児、中に入り切らず玄関の外に横たわる人たち…。宮武さんはシャッターを切った。
職員51人が犠牲
悲惨極まるその現場で、生田カツ子さん(95)=島根県津和野町=は被爆直後から救護に当たっていた。当時16歳で、病院併設の救護看護婦養成所1年生。「傷口にチンク油を塗ったり、うじをピンセットで取り除いたりするのが、せめてもの手当てでした」と証言する。
自らも6日、爆風で倒れた木造寄宿舎で柱の下敷きになった。火が回る前にはい出て助かったが、背中をけがした。病院では、職員51人が犠牲に。設備は大きな被害を受け、医薬品や医療資材もすぐに足りなくなった。
包帯など再利用
「服がほとんど焼けて、やけどした腕から皮膚が垂れ下がったような方が大勢いました」。上級生の指示で、一度使った包帯やガーゼを再利用するため、水道で洗い続けた。ある夜、病室で赤ん坊の泣き声が聞こえて近寄ると、そばの母親は息絶えていた。「当時は、悲しいと思う暇はありませんでした。でも、あの赤ちゃんは今でも忘れられません」
広島赤十字病院で医師の治療を受ける負傷者の姿も宮武さんの写真に残る。1枚は原爆資料館にも展示されている「火傷の手当てを受ける少年」。2年前、その少年は当時16歳の原田成男さん(99年に70歳で死去)だと、長男の昌吾さん(51)=大阪府摂津市=が申し出た。生前、父と資料館を訪れ「これ俺やねん」と聞いていた。
治療に関わった看護師が当時の状況を78年に記載した「現認証明書」も父から受け継ぎ、保管している。鹿児島市出身の原田さんは広島の陸軍船舶通信補充隊に所属し、爆心地から約1・7キロにあった宿営地の千田国民学校(現中区の千田小)の校庭で被爆した。「火傷がひどく 開口が困難で飲食の不能が続き時々意識の不明な状態が続いた」(証明書)
「おやじから直接被爆体験を聞いたことはほとんどなかった」と昌吾さん。写真が父の痛みをありありと伝えている。(山本真帆)
(2024年8月10日朝刊掲載)
写真は以下から
広島赤十字病院に収容された人たち
広島赤十字病院でやけどの手当を受ける少年
「ひん死の人たちがいっぱいコンクリートの床に収容され、声にならないうめき声に、私はカメラを持って立ちすくんだ」(82年刊「原子雲」収録の宮武さんの手記)
爆心地から約1・5キロ。多くの病院が焼き尽くされる中、倒壊も焼失も免れた広島赤十字病院の鉄筋の病棟に負傷者が殺到していた。熱線で顔を焼かれた女性、頭に大けがをした幼児、中に入り切らず玄関の外に横たわる人たち…。宮武さんはシャッターを切った。
職員51人が犠牲
悲惨極まるその現場で、生田カツ子さん(95)=島根県津和野町=は被爆直後から救護に当たっていた。当時16歳で、病院併設の救護看護婦養成所1年生。「傷口にチンク油を塗ったり、うじをピンセットで取り除いたりするのが、せめてもの手当てでした」と証言する。
自らも6日、爆風で倒れた木造寄宿舎で柱の下敷きになった。火が回る前にはい出て助かったが、背中をけがした。病院では、職員51人が犠牲に。設備は大きな被害を受け、医薬品や医療資材もすぐに足りなくなった。
包帯など再利用
「服がほとんど焼けて、やけどした腕から皮膚が垂れ下がったような方が大勢いました」。上級生の指示で、一度使った包帯やガーゼを再利用するため、水道で洗い続けた。ある夜、病室で赤ん坊の泣き声が聞こえて近寄ると、そばの母親は息絶えていた。「当時は、悲しいと思う暇はありませんでした。でも、あの赤ちゃんは今でも忘れられません」
広島赤十字病院で医師の治療を受ける負傷者の姿も宮武さんの写真に残る。1枚は原爆資料館にも展示されている「火傷の手当てを受ける少年」。2年前、その少年は当時16歳の原田成男さん(99年に70歳で死去)だと、長男の昌吾さん(51)=大阪府摂津市=が申し出た。生前、父と資料館を訪れ「これ俺やねん」と聞いていた。
治療に関わった看護師が当時の状況を78年に記載した「現認証明書」も父から受け継ぎ、保管している。鹿児島市出身の原田さんは広島の陸軍船舶通信補充隊に所属し、爆心地から約1・7キロにあった宿営地の千田国民学校(現中区の千田小)の校庭で被爆した。「火傷がひどく 開口が困難で飲食の不能が続き時々意識の不明な状態が続いた」(証明書)
「おやじから直接被爆体験を聞いたことはほとんどなかった」と昌吾さん。写真が父の痛みをありありと伝えている。(山本真帆)
(2024年8月10日朝刊掲載)
写真は以下から
広島赤十字病院に収容された人たち
広島赤十字病院でやけどの手当を受ける少年