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連載・特集

呉 坂のまち 長ノ木周辺編 <上> 蔵や街道 海軍以前の面影

 呉は平地が少なく、山の斜面に住宅地を広げてきた。そんな「坂のまち」を記者が歩いて住民の生活や歴史に触れるシリーズ。今回、訪ねたのは灰ケ峰(737メートル)の麓にある長ノ木町周辺。旧海軍の呉鎮守府開庁前の面影が残り、アニメ映画「この世界の片隅に」でも描かれた町並みを紹介する。(栾暁雨)

 まず向かったのは、国の重要文化財にも指定されている旧澤原家住宅の「三ツ蔵」(長ノ木町)。「この世界~」で印象に残っていた。1809年築で同じ形の3棟の蔵が並ぶ特徴的な造り。澤原家は当時、庄山田村と呼ばれたこの一帯の庄屋を代々務めていた。

 「鎮守府のイメージが強い呉で、海軍以前の面影を残す貴重な存在ですよ」と、市文化財保護委員の松下宏さん(88)。当時は米蔵などとして使われていたようで、市中心部から少し離れていたため呉空襲を免れた。

 澤原家がこの地に住み始めたのは江戸中期の1729年。三ツ蔵の向かいには、広島藩主の休憩所や宿泊所として使われた「前座敷」が立つ。今も残る表門は御成門と呼ばれ、なぜか木板でふさがれていた。松下さんによると、「殿様以外が通るのは頭が高い」とのことで、藩主専用の門だった名残という。

広島と結ぶ陸路

 三ツ蔵が面する「長ノ木街道」は当時、呉と広島を結ぶ唯一の陸路だった。灰ケ峰を越え熊野・矢野方面に出る。急勾配の道路は道幅が狭い割に交通量が多く、車や原付きバイクがびゅんびゅん通る。今も昔も地域に欠かせない道なのだ。

 南北に延びる「長ノ木街道」西側の道を歩いていると「鉄管道路」と書かれたバス停を辰川小跡近くで見つけた。調べてみると、大正期に二河川から平原浄水場までの東西約4キロに敷かれた水道管の上に道を造ったのが由来らしい。ただ、詳しい位置は地図にも載っていない。

「鉄管道路」今も

 地元住民の話を頼りにバス停から鉄管道路とみられる道をたどって東に進むと西教寺(長ノ木町)に着いた。北門前の道路の先には長い階段。「ここまでかな」と思っていると、近くに住む男性(80)が「170段あるが、ここも鉄管道路。階段の下に管があるんよ」と教えてくれた。

 勾配のあるこのエリアは水不足に悩まされ、江戸期には農民たちが水路を整備。「二河の上井手(約4キロ)・下井手(約5キロ)」と呼ばれ、田畑を潤した。市街地開発が進み、原形が残っている場所はわずかだ。

 最後は水の神様をまつる西辰川町の貴船神社へ。地元では「龍王さん」の名で親しまれている。「拝殿の竜は必見」と聞き、99段の階段を汗だくで上ると拝殿奥に高さ70センチほどの立派な木彫りの竜が置かれていた。

 神職の鍵本博史さん(70)によると、江戸初期に干ばつに見舞われたため雨乞いをすると、竜が現れて大雨を降らせたとの伝説が残る。木彫りの竜は鍵本さんの伯父が45年前、境内にあった樹齢約350年の松の幹から作った。とぐろを巻いて外を向く姿は、地域を見守っているようだった。

(2024年8月11日朝刊掲載)

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