緑地帯 天瀬裕康 原爆文学いま一度④
24年8月16日
私は、2016年9月発行の同人雑誌「広島文芸派」の復刊第31号に「栗原貞子作品から新しい詩論構築への試み」という小論考を寄せ、詩や短歌の「横書き」を推奨したことがある。
栗原貞子(旧姓・土居)は1913年、安佐郡可部町(現広島市安佐北区)の農家に生まれた。広島県立可部高等女学校時代から詩に興味を示し、卒業後は歌誌「真樹」の同人となる。31年にアナキストの栗原唯一と結婚、各地を転々。戦時中も反戦詩を書き、44年に祇園町(現安佐南区)に疎開し被爆した。46年3月「中国文化」(原子爆弾特集号)を刊行。唯一は占領軍を恐れ難色を示すが、有名な「生ましめんかな」を発表。彼女の真価は、原爆被害と軍都広島の加害性を告発したことだろう。
中区東白島町の詩碑とは別に、安佐北区可部町大字勝木にある栗原家の墓地を訪れたのは、貞子が2005年に92歳で死去した後、「広島文学資料保全の会」の一行に連れられてのことだ。長女の眞理子さんが同行してくださった。お墓の正面には「倶会一処」と彫ってある。その左横に「護憲」と大きく横書きした黒い碑があって、裏面には憲法第9条の全文と、建立者眞理子さんの父母に捧(ささ)げる言葉が添えてあるが、眞理子さんも12年に没した。
すべてが遠ざかるような気もしたが、この可部町勝木は原爆投下時に私がいた安佐町飯室の東隣という縁もある。若い頃の貞子はつらい目に遭っているが、晩年は幸福だったと思う。 (作家・詩人=広島市)
(2024年8月16日朝刊掲載)
栗原貞子(旧姓・土居)は1913年、安佐郡可部町(現広島市安佐北区)の農家に生まれた。広島県立可部高等女学校時代から詩に興味を示し、卒業後は歌誌「真樹」の同人となる。31年にアナキストの栗原唯一と結婚、各地を転々。戦時中も反戦詩を書き、44年に祇園町(現安佐南区)に疎開し被爆した。46年3月「中国文化」(原子爆弾特集号)を刊行。唯一は占領軍を恐れ難色を示すが、有名な「生ましめんかな」を発表。彼女の真価は、原爆被害と軍都広島の加害性を告発したことだろう。
中区東白島町の詩碑とは別に、安佐北区可部町大字勝木にある栗原家の墓地を訪れたのは、貞子が2005年に92歳で死去した後、「広島文学資料保全の会」の一行に連れられてのことだ。長女の眞理子さんが同行してくださった。お墓の正面には「倶会一処」と彫ってある。その左横に「護憲」と大きく横書きした黒い碑があって、裏面には憲法第9条の全文と、建立者眞理子さんの父母に捧(ささ)げる言葉が添えてあるが、眞理子さんも12年に没した。
すべてが遠ざかるような気もしたが、この可部町勝木は原爆投下時に私がいた安佐町飯室の東隣という縁もある。若い頃の貞子はつらい目に遭っているが、晩年は幸福だったと思う。 (作家・詩人=広島市)
(2024年8月16日朝刊掲載)