[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月10~11日ごろ 顔中包帯 憔悴の一家 「写していらん」
24年8月11日
傷ついた母娘が乗る手押し車を父親が押す。母親は憔悴(しょうすい)した表情。少女は顔が見えなくなるほど包帯を巻かれている。1945年8月10~11日ごろ、朝日新聞大阪本社写真部の宮武甫(はじめ)さん(85年に71歳で死去)が広島市皆実町(現南区)で撮影した。
親子3人のうち当時6歳の少女、吉田恵美子さん(85)が健在だ。現在は体調を崩して市内の高齢者施設で暮らす。次女圭子さん(50)=東区=が、母から聞いている被爆体験を話してくれた。「『顔の包帯を交換するのが痛くて泣いていた』と。皮膚が包帯にひっついたそうです」
恵美子さんは、写真に写る父相崎仙太郎さんと母ハツヨさんの長女。6日は、千田町(現中区)の建物疎開作業に動員された母に現場に連れられていた。がれきの山に登って遊んでいたとき、熱線にさらされた。爆心地から約2キロ。顔と左腕に大やけどを負った。
救護所への道中
写真は、包帯を替えるため皆実町(現南区)にあった広島地方専売局の救護所に向かう途中で撮られた。恵美子さん本人が当時を振り返る証言映像が残る。比治山女子高(南区)の放送部の生徒が2007年に収録し、「写真はつなぐ」と題する約5分間のドキュメンタリー作品にまとめた。
「(宮武さんが)急に後ろからさっと出てこられて、私の斜め左側の前の方へカメラを向けた。その時に母(ハツヨさん)が一言『写していらん』て言ったわけ」(以下証言映像)。家族が望んだ撮影ではなかった。「顔もこんなに包帯されて暑くて暑くてね。どこかがかゆくてもかけないし」
代表的な一枚に
戦後、恵美子さんは左腕のやけどがケロイドになって残り、夏も長袖で隠して生きた。手押し車の写真は代表的な原爆写真となり、国内外に原爆の悲惨さを伝えた。証言収録の際には生徒と両親が眠る墓に参り、手を合わせた。「『写真が役に立っているよ』って言ったの」
79年前のこの時期は、疎開先で直接の被爆を免れた子どもたちに家族の死が伝わり、悲しみが広がっていた。
当時8歳の天津裕さん(13年に76歳で死去)は、被爆後に行方が分からなかった祖母千代野さんについて絵日記を書いている。市内から亀山村(現安佐北区)に縁故疎開していた。
「おばあちゃんの、おこつが、今日かへった。これまで、おかあちゃんや、おねえちゃんが、さがしに行かれたのですが、みつからなかった。ぼくは、かなしかった」(45年8月10日)
「初めて、つえ(疎開先の遠戚の名字)の、ぶどうが、なった。初めてなので、おばあちゃんに、おそなへした」(11日)
千代野さんは、左官町(現中区)の自宅の焼け跡で遺骨が見つかった。11日はやさしかった祖母に供えたブドウが描かれている。(山下美波、編集委員・水川恭輔)
(2024年8月11日朝刊掲載)
手押し車に乗る大やけどの少女と父母
親子3人のうち当時6歳の少女、吉田恵美子さん(85)が健在だ。現在は体調を崩して市内の高齢者施設で暮らす。次女圭子さん(50)=東区=が、母から聞いている被爆体験を話してくれた。「『顔の包帯を交換するのが痛くて泣いていた』と。皮膚が包帯にひっついたそうです」
恵美子さんは、写真に写る父相崎仙太郎さんと母ハツヨさんの長女。6日は、千田町(現中区)の建物疎開作業に動員された母に現場に連れられていた。がれきの山に登って遊んでいたとき、熱線にさらされた。爆心地から約2キロ。顔と左腕に大やけどを負った。
救護所への道中
写真は、包帯を替えるため皆実町(現南区)にあった広島地方専売局の救護所に向かう途中で撮られた。恵美子さん本人が当時を振り返る証言映像が残る。比治山女子高(南区)の放送部の生徒が2007年に収録し、「写真はつなぐ」と題する約5分間のドキュメンタリー作品にまとめた。
「(宮武さんが)急に後ろからさっと出てこられて、私の斜め左側の前の方へカメラを向けた。その時に母(ハツヨさん)が一言『写していらん』て言ったわけ」(以下証言映像)。家族が望んだ撮影ではなかった。「顔もこんなに包帯されて暑くて暑くてね。どこかがかゆくてもかけないし」
代表的な一枚に
戦後、恵美子さんは左腕のやけどがケロイドになって残り、夏も長袖で隠して生きた。手押し車の写真は代表的な原爆写真となり、国内外に原爆の悲惨さを伝えた。証言収録の際には生徒と両親が眠る墓に参り、手を合わせた。「『写真が役に立っているよ』って言ったの」
79年前のこの時期は、疎開先で直接の被爆を免れた子どもたちに家族の死が伝わり、悲しみが広がっていた。
当時8歳の天津裕さん(13年に76歳で死去)は、被爆後に行方が分からなかった祖母千代野さんについて絵日記を書いている。市内から亀山村(現安佐北区)に縁故疎開していた。
「おばあちゃんの、おこつが、今日かへった。これまで、おかあちゃんや、おねえちゃんが、さがしに行かれたのですが、みつからなかった。ぼくは、かなしかった」(45年8月10日)
「初めて、つえ(疎開先の遠戚の名字)の、ぶどうが、なった。初めてなので、おばあちゃんに、おそなへした」(11日)
千代野さんは、左官町(現中区)の自宅の焼け跡で遺骨が見つかった。11日はやさしかった祖母に供えたブドウが描かれている。(山下美波、編集委員・水川恭輔)
(2024年8月11日朝刊掲載)
手押し車に乗る大やけどの少女と父母