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[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月12日ごろ 政府の抗議文 新聞に掲載 「人類文化に対する罪悪なり」

 爆心地から約260メートル東南の広島市紙屋町(現中区)で焼け残った住友銀行広島支店。外壁に救護所の収容者名簿が掲示され、人が群がっていた。陸軍船舶司令部の写真班員、川原四儀(よつぎ)さん(1972年に49歳で死去)が捉えた一枚には45年8月12日付「中国新聞」も写る。「新型爆弾」攻撃に対し、政府が米国に10日提出した抗議文を載せている。

 「交戦者、非交戦者の別なくまた男女老幼を問はず総て爆風及び輻射熱により無差別に殺傷せられ(略)本件爆弾を使用するは人類文化に対する罪悪なり」(抗議文)

 その紙面は、朝日新聞西部本社の「代行印刷」だった。6日、爆心地から約900メートルの上流川町(現中区)にあった中国新聞社の鉄筋の本社ビルは内部を全焼し、自力発行は止まった。国民義勇隊として建物疎開作業に動員された社員は次々と犠牲になった。

「原爆」 使用禁止

 被爆した記者たちは7日に「口伝隊」を編成。整理部長を務めた大下春男さん(89年に86歳で死去)の手記「歴史の終焉(しゅうえん)」(53年)によれば、「民心の動揺を防ぐ」ため、「臨時傷病者の収容場所、救援食糧」などを声で伝えた。

 警察からは「原子爆弾という名称を使用してはいけない」と命じられた。米国から「原爆投下」声明が出た後も、軍が「国民の心理に強い衝撃を与えることは戦争指導上反対」と訴え、「新型爆弾」の呼称が政府方針になっていたと、国務大臣・情報局総裁だった下村海南(本名・宏)氏が「終戦記」(48年)に書き残す。

 中国新聞社は、朝日新聞、毎日新聞の大阪、西部各本社に協力を依頼し、8月9日付から「中国新聞」の題字入り代替紙が届き、焼け残ったビルに張り出した。「新型爆弾」を、見出しにも記事にも使っていた。

 一方で10日、大本営調査団が市内で開いた陸海軍合同研究会で、「原子爆弾ナリト認ム」と「判決」が出た。原子物理学者の仁科芳雄博士たちが調査に関わった。

 10日付「広島爆撃調査報告」は理由の一つを記す。「中心部附近ノ土砂、放射ヲ続行シアルモノ人員ニシテ著シク白血球ノ数少クナリタルモノアリ之ハ放射線ノ影響ト判定セラル」

 熱線、爆風、放射線が複合的に命を奪う原爆。死者は増え続けていた。

多くの社員犠牲

 「歩くまでではないものの、やけどはしておらず割と元気で」。黒河直子さん(92)=西区=は10日、疎開先の神杉村(現三次市)で父北山一男さん=当時(40)=を迎えた。中国新聞社国民義勇隊の第二中隊長で水主町(現中区)の建物疎開作業を率い、被爆した。

 大八車で役場近くの救護所に運ばれてから3日後の13日。「朝、歯を磨きながら私と話をしていると、目が少しつって動かなくなって…」。この日、息を引き取った。本社員の約3分の1に当たる114人が原爆で犠牲になった。(編集委員・水川恭輔、山下美波)

(2024年8月12日朝刊掲載)

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