緑地帯 天瀬裕康 原爆文学いま一度①
24年8月13日
長らく私は本名の渡辺晋で、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部理事を務め、筆名の天瀬裕康でも、同じ思いを持ち続けてきた。
1931年に呉市で生まれた私は、広島県立呉第一中(現三津田高)1年の終わりから海軍工廠(こうしょう)に動員され、45年7月1日夜からの焼夷弾(しょういだん)攻撃で呉市街が全滅した時に体を壊し、現在の広島市安佐北区安佐町飯室にある親戚の寺で療養する。8月6日の朝、閃光(せんこう)地響き、きのこ雲。昼ごろ寺の本堂は負傷者の収容所となり、被爆者がトラックで運ばれて来て死んでいく。私は死者を焼き場へ運び救護を支援し、後に「3号被爆者」と認定される。
終戦は呉市で迎え、50年に岡山大医学部へ入学。53年1月25日付中国新聞夕刊に載った志條みよ子さんの「『原爆文学』について」は、原爆文学を否定する論旨で論争は3カ月続く。彼女は今の広島市中区立町にあった酒場と画廊「梟(ふくろう)」の店主で随筆家だ。論争者の一人、作家の小久保均さんは、私が東洋工業付属病院(現マツダ病院)に就職すると広島文壇の数人に紹介して下さった。中学の同級生、好村冨士彦広島大名誉教授は、原爆文学の集いに誘ってくれた。
私の理解する原爆文学は、原爆が人間に及ぼす全てを扱うものだ。反核戦争の立場を貫いた作家数人を、周辺の状況も含め、眺めてみたい。(あませ・ひろやす 作家・詩人=広島市)
(2024年8月13日朝刊掲載)
1931年に呉市で生まれた私は、広島県立呉第一中(現三津田高)1年の終わりから海軍工廠(こうしょう)に動員され、45年7月1日夜からの焼夷弾(しょういだん)攻撃で呉市街が全滅した時に体を壊し、現在の広島市安佐北区安佐町飯室にある親戚の寺で療養する。8月6日の朝、閃光(せんこう)地響き、きのこ雲。昼ごろ寺の本堂は負傷者の収容所となり、被爆者がトラックで運ばれて来て死んでいく。私は死者を焼き場へ運び救護を支援し、後に「3号被爆者」と認定される。
終戦は呉市で迎え、50年に岡山大医学部へ入学。53年1月25日付中国新聞夕刊に載った志條みよ子さんの「『原爆文学』について」は、原爆文学を否定する論旨で論争は3カ月続く。彼女は今の広島市中区立町にあった酒場と画廊「梟(ふくろう)」の店主で随筆家だ。論争者の一人、作家の小久保均さんは、私が東洋工業付属病院(現マツダ病院)に就職すると広島文壇の数人に紹介して下さった。中学の同級生、好村冨士彦広島大名誉教授は、原爆文学の集いに誘ってくれた。
私の理解する原爆文学は、原爆が人間に及ぼす全てを扱うものだ。反核戦争の立場を貫いた作家数人を、周辺の状況も含め、眺めてみたい。(あませ・ひろやす 作家・詩人=広島市)
(2024年8月13日朝刊掲載)