芸備線と戦争 <上> 軍国少年
24年8月13日
軍人、被爆者、動員学徒や疎開の子どもたち…。鉄路は、戦争に翻弄(ほんろう)された人たちを運んだ。存続の岐路に立つ芸備線も、悲しみや苦しみを乗せて走った。終戦から今年で79年。県北の体験者を訪ねてその思いに触れた。(菊池諒)
列車の音を聞くと79年前の後悔がよみがえる。庄原市西城町の真宗大谷派蓮照寺の前住職中山道(おさむ)さん(94)は、戦局が厳しさを増す1945年6月、海軍の飛行士になるため芸備線に乗った。備後西城駅から防府市の防府海軍通信学校へ向かうためだった。
静かに泣いた母
海軍少将の伯父に憧れた15歳の少年は、海軍飛行予科練習生に合格。通知が届いた時、静かに涙を流した母を見て「情けない」となじったことが今も忘れられない。
駅前の広場で国防婦人会や在郷軍人から盛大な見送りを受けた。中山さんはともに予科練に入る同学年7人を代表してこう誓った。「再び、生きては帰りません」
黒煙を上げる汽車。7人が乗り込む時、1人の母親が名前を呼びながら息子に抱きついた。自分の母親の姿はホームになかった。「今生の別れかもしれない。でも、私の姿を見ると悲しくなるから来なかったんだろう」
「帰れないかも」
広島駅行きの客車は静まり返っていた。駅に着くと、近くの旅館で食事を済ませた。「もう二度と帰れないかも」と、故郷を離れた寂しさがじわりとこみ上げてきた。
翌日、山陽線で防府に向かう途中の岩国駅で空襲警報が鳴った。客車内で頭を下げ、爆弾の音を聞き、震えた。「予科練が爆弾で吹き飛べば西城に帰れるのに」。飛行機乗りへの憧れは現実にかき消されていった。
庄原市社会福祉課によると、兵士として戦地に行った住民の数は不明だが、庄原市出身の太平洋戦争での戦没者数は2923人に上る。
中山さんは防府市での訓練中に終戦を迎え、汽車を乗り継いで西城へ戻った。途中、原爆で壊滅した広島を見た。こんな結末を招く戦争は二度と起こしてはいけない―。「軍国少年」は戦後、教員となり県内の高校での平和教育に力を注いだ。
全国各地の鉄路と同じく芸備線も多くの人々を戦地に送り出した。「少年時代の私にとって、駅で見送られて戦地に赴くのは憧れだった。だが、汽車の中での後悔が、戦争の愚かさに気付かせてくれ、こうして生きている」。自坊の裏手から響く列車の音が、15歳の自分へと立ち戻らせる。
(2024年8月13日朝刊掲載)
戦地への旅 後悔乗せて
列車の音を聞くと79年前の後悔がよみがえる。庄原市西城町の真宗大谷派蓮照寺の前住職中山道(おさむ)さん(94)は、戦局が厳しさを増す1945年6月、海軍の飛行士になるため芸備線に乗った。備後西城駅から防府市の防府海軍通信学校へ向かうためだった。
静かに泣いた母
海軍少将の伯父に憧れた15歳の少年は、海軍飛行予科練習生に合格。通知が届いた時、静かに涙を流した母を見て「情けない」となじったことが今も忘れられない。
駅前の広場で国防婦人会や在郷軍人から盛大な見送りを受けた。中山さんはともに予科練に入る同学年7人を代表してこう誓った。「再び、生きては帰りません」
黒煙を上げる汽車。7人が乗り込む時、1人の母親が名前を呼びながら息子に抱きついた。自分の母親の姿はホームになかった。「今生の別れかもしれない。でも、私の姿を見ると悲しくなるから来なかったんだろう」
「帰れないかも」
広島駅行きの客車は静まり返っていた。駅に着くと、近くの旅館で食事を済ませた。「もう二度と帰れないかも」と、故郷を離れた寂しさがじわりとこみ上げてきた。
翌日、山陽線で防府に向かう途中の岩国駅で空襲警報が鳴った。客車内で頭を下げ、爆弾の音を聞き、震えた。「予科練が爆弾で吹き飛べば西城に帰れるのに」。飛行機乗りへの憧れは現実にかき消されていった。
庄原市社会福祉課によると、兵士として戦地に行った住民の数は不明だが、庄原市出身の太平洋戦争での戦没者数は2923人に上る。
中山さんは防府市での訓練中に終戦を迎え、汽車を乗り継いで西城へ戻った。途中、原爆で壊滅した広島を見た。こんな結末を招く戦争は二度と起こしてはいけない―。「軍国少年」は戦後、教員となり県内の高校での平和教育に力を注いだ。
全国各地の鉄路と同じく芸備線も多くの人々を戦地に送り出した。「少年時代の私にとって、駅で見送られて戦地に赴くのは憧れだった。だが、汽車の中での後悔が、戦争の愚かさに気付かせてくれ、こうして生きている」。自坊の裏手から響く列車の音が、15歳の自分へと立ち戻らせる。
(2024年8月13日朝刊掲載)