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連載・特集

[ヒロシマドキュメント 1945年] 8月13日 福屋に収容 自宅で最期

父は「順子を頼む」と言い残した

 被爆から1週間後の1945年8月13日。家族の必死の看病もむなしく、宮谷正徳さん=当時(28)=が尾道市内の自宅で、息を引き取った。背中や頭に大やけどを負っていた。

 一人娘の順子(よりこ)さん(80)=尾道市=は1歳だったため記憶はないが、亡き母たちから聞いている。「父は亡くなる前、『順子を頼む』と見守る家族に言い残したそうです」

 宮谷さんは戦前、尾道商業学校(現尾道市の尾道商業高)で教員を務めていた。漢文と、中学生時代から腕を磨いた柔道を教えていた。

 召集されて広島市基町(現中区)の中国軍管区通信補充隊に配属。8月6日に広島城近くで熱線にさらされる。繁華街の胡町(現中区)で焼け残っていた鉄筋の福屋百貨店に収容された。朝日新聞大阪本社写真部の宮武甫(はじめ)さん(85年に71歳で死去)が10日に撮影した写真には、頭や腕に包帯を巻かれたけが人が床にぎっしり寝かされている様子が写る。

何度も「殺して」

 宮谷さんは福屋にいる―。被爆5日後の11日、尾道市の家族に知り合いから知らせがあった。父鹿一さん、妻節代さんたちは列車で広島へと急ぎ、その日の深夜に広島駅に着いた。順子さんも節代さんに背負われていた。

 翌朝。鹿一さんが「正徳どこやー」と叫びながら福屋を捜すと、ほこりだらけの床に本人が横たわっていた。収容者に下痢が相次いでおり、周りに便器代わりの一斗缶が置いてあった。鹿一さんが外を走るトラックに頼み込み、駅に運んだ。

 12日のうちに自宅に連れ帰られた宮谷さんは、苦しみのあまり「殺してください」と家族に何度も頼んだ。やけどの体に張り付いた上着をはさみで切り、包帯を巻いても血はまた出てきたという。

怖くて近づかず

 「『順子』と父に呼ばれても、何が何だか分からない私は怖くて近づかんかったみたいで…」。順子さんは今も心の痛みを感じている。福屋で頭に付けられていた「背部火傷」などと書かれた紙片が遺品になった。最期に「墓にたくさん水を持って来てくれ」と言い残した宮谷さんのため、原爆の日は家族で墓に水を届けている。

 宮谷さんが収容されていた福屋は「臨時伝染病院」となり、下痢や血便の症状がある被爆者を手当てした。急性感染性大腸炎「赤痢」と判断されたためだ。陸軍軍医学校の教官たちでつくる陸軍省広島災害調査班の8月13日付「速報第八号」も、「目下広島市内ニ赤痢散発」と記す。

 下痢や血便が、被爆直後から2週間にかけて目立つ原爆放射線の急性障害の症状だと分かるのは、まだ先だった。(編集委員・水川恭輔)

(2024年8月13日朝刊掲載)

ひん死の兵士たち

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